昨日、一昨日と明け方の時間に車で祈りやすい場所を探しつつ、祈っています。
私は雨の日と体力的につらいな、という日には、歩き祈りではなく、車で祈れる場所まで行って、そこで祈っているのですが、少し前にその場所を奪われてしまいました。
そこは、神様に導かれたのではないか、とも思われるような形で偶然見つけた場所だったのですが、先日行ったら「駐車禁止」の看板が立っていたのです。
これまで一年弱、何度もその場所に行って祈ってきて、その間、ほかの車が来たことなど半年前に一度あったきりなのに、なぜ今になって? という思いでしたが、仕方なくその場所はあきらめることにしました。
そんな時、本当にピンポイントで、その場所の霊界を変えるほどの祈りをしているのか、という御言葉が宣布され、私の考えが間違っていたことに気づきました。
私は祈りやすい場所ばかりを求めていて、その場所の霊界を自分が変えよう、という意識はまったくありませんでした。もちろん、祈りやすい場所とそうでない場所はあるとは思いますが、祈りやすい場所を見つけたうえで、さらに祈りやすい場所に自分の力で変えていかなければならない。その考えが抜け落ちていたのです。それでも、正しい祈りを捧げていれば、霊界が変わったのだと思います。しかし、実際には、その神様が導いてくださったと思われる深く祈れる場所で、最近はあまり深く祈れていませんでした。ということは、自身が霊界をよく出来なかったばかりか、悪くしてしまった可能性さえあります。そして結果的にサタンに奪われてしまったのかもしれない。
慢心していました。
「この場所は大丈夫」と考えて、油断し「とりあえずその場所に行けば祈れる」と簡単に考えていた。しかし、いくら祈りやすかったとしても、そこにサタンが来ないとは限らない。むしろ奪ってしまおうと狙われる可能性の方が高い。
サタンにとって「神様に祈る」という嫌なことをされているのですから、どんなことをしてでも阻止しようとしてくる。
私はそれを深く悟れていませんでした。自分は大丈夫だろう、と考えていたのだと思います。そうした気のゆるみが、今回のことに繋がったのでしょう。
最近、ずっと「祈り」についての御言葉が宣布されていますが、それと同時に、このようなことが起こり、更に歩き祈りの最中にも、たて続けに警察から職務質問を受けたり、と、サタンが私の祈りを邪魔しているのではないか、と思える出来事が相次いでいました。
そうしたことから、改めて御言葉の凄さを実感するとともに、神様は私たちを見てくださっていて、今、何が起こっているのか、そして今後何が起こりうるかを教えてくださっているのだということが身に染みてわかりました。
世の中の大きな流れだけでなく、個々の細かい問題にまで目を通してくださっている。
本当にありがたく思います。
幸いにして、昨日は山へ向かう途中の山間にある道の駅のような場所で車を停めて祈ったところ深く祈ることが出来たので、今後しばらくは車祈りの際にはそこを使いつつ、更に良い場所を探していこうとは思っています。
今回のことで、本当に気が抜けないな、とつくづく思いました。
これはサタンとの戦いなのだから、気を緩めたら奪われてしまう、自分は強くない、だから神様に祈り求めなければ、ということを肝に銘じて、今後も信仰生活を続けていきたいです。