私は以前、人が何を考えているのか、自分はどう思われているのかが、とても気になっていました。

良く思われたい、という思いが強く、何をしたら相手が気分よくいられるかを常に考えて行動していました。争いごとを避け、極力相手に合わせ、自分の考えを押し殺して、ある意味我慢して生活していたのです。

それが顕著になったのは、結婚してからです。妻とうまくやっていくためにも、出来る限り気を使い、妻を怒らせるようなことをしないようにと過剰に考えてしまい、ある意味びくびくしながら生活をしていました。ただ、妻がそのようなことを望んでいるはずもなく、それによって、余計に関係がぎくしゃくする、といった悪循環に陥っていたように思います。

そんな中、ラプトブログに出会いました。

私は以前から陰謀論が好きで、その頃は常に「ネタ」を探していたのですが、その一つにラプトブログがあったのです。そして他の陰謀論サイトとは一線を画す内容に驚き、いつしかラプトブログ以外のブログは全く読まなくなっていました。更にラプトブログの陰謀論に夢中になっていくうちに、有料記事に興味を持ち、購読するようになって、そこに記されている内容に従いたい、という強い思いが沸き起こり、信仰生活を始める決意をしたのでした。

ただ、いざそう決めたものの、実際に行動を起こすのは簡単ではありませんでした。

一番の懸念材料は、妻に信仰生活について伝えることでした。信仰生活には行動が伴います。他人であれば、適当にはぐらかせますが、一緒に生活している妻に説明もなく行うのは不自然ですし、ごまかしたところで不信感を募らせかねない。特に「酒をやめる」ことに関しては、それまでの自身の生活から見たら不自然極まりないので、しっかり説明しなければならない、と思いました。

しかし、それを聞いた妻がどう反応するか考えると、すぐには言い出せませんでした。

「あるブログに出会い、その内容に聞き従いたいから、酒をやめる」と言って、納得するだろうか? それまで神社や墓参りに行っていたのに、それをやめてキリスト教を信じると言ったらどのような反応を示すのか? 「変な宗教に騙された」と思われないだろうか? 「明け方に神様に祈るから、毎晩起きるよ」と言って、不気味がられないだろうか? 

しかし、それらすべてが杞憂に終わりました。

意を決して話したのですが、妻は意外なほどにあっさり「そうしたいなら、そうすれば」と受け入れてくれたのです。その後も、結婚してから一緒に買った神棚を(ゴミの日に生ゴミと一緒に)捨てることに対しても、墓参りに行かなくなったことに対しても、理解を示してくれました。

そして、週一回の断食をしていた時も「食べない日を決めて教えてくれれば、その日のあなたの分の夕飯は作らないから」と言うだけで、特段気にしている感じはありませんでした。

結局、私の考えすぎだったのかもしれません。妻は私が思うほど細かいことを深く気にする性格ではないのかも。

もしくは、私が信仰生活をしやすいように、神様がそのように仕向けてくださったのかもしれません。

いずれにしても、長く信仰生活を続けていますが、信仰生活について不満を言われたことは一度もありません。かといって、妻を伝道できていないので、手放しで喜べるわけでもないのですが、少なくとも身近な人に信仰生活を妨害されることはないので、それだけでもありがたく思っています。

結局、妻がどう考えているか、妻が私のことをどう思っているか、と思い悩む必要はなかった。

その時は、そう思って胸をなでおろすだけだったのですが、その後、信仰生活を続けていく内に「気にするべきは神様の考えであり、心情であって、人ではない。神様に意識を向け、神様がどのように考え、神様が自分をどのように思っているのか、それだけを考えていればいい」ということを悟りました。

人の気持ちを気にしていても、どこにも答えはなく、ただ不安心配だけがつのるけれど、神様の考えや心情は、御言葉で事細かく説明してくださっているので、明確な答えがあり、それに従えばいいだけなので、不安心配がなくなる。

そのような御言葉を聞き、実際に従ったことで、本当にそのようになりました。

信仰生活を始めてからは、妻とのギクシャクした感じがなくなりましたし、友人知人や職場の人たちとの関係も良好です。というか、たとえ悪くなったとしても、気にならなくなりました。

もし相手が不機嫌でその理由が分からなくても、無理に詮索せずに、神様に祈り求めればいい。そうすれば神様が助けてくださるし、解決法を教えてくださる。現にそのような体験を何度もしています。

なにより「何かあっても、祈り求めれば神様が助けてくださる。もしくは解決法を教えてくださる」という安心感が常にあるので、本当に気持ちが楽なのです。

日本人は気遣いができる、相手を思いやる心がある、と言われ、それらが美徳と捉えられていますが、その加減が分からず、周りに気を使いすぎ、思いやりすぎて、結果、苦しんでいる人も多いように思います。

多くの人間関係で思い悩んでいる人が、ラプトブログに出会い、御言葉を学び、聞き従うことで、その苦しみから解放されるよう願います。

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