神様が働いてくださったのかもしれない。そう思える出来事がありました。
私には小学二年生の息子がいるのですが、その息子の学年は三クラスあります。
一年生の頃から、息子のクラスだけが平和であとの二クラスは問題が山積みだ、という話を聞いていました。いずれも授業中に奇声を発したり、出ていってしまったりする子がいて、授業にならない、という話や、むやみに暴力を振るう子がいる、とのことでした。特に一人の生徒については手に負えないようで、授業中はその子専属に一人の先生がつきっきりになり、更に何人もの保護者が監視に来ていたようで、時には教頭先生や校長先生までもが授業を見に来るほどだったといいます。その子に幾度となく暴力を振るわれて、いっそのこと学校を変えようかと考えている子もいるようでした。
一方、息子のクラスは、というと、そういったことがほとんど無く、皆が仲良くて、クラスでモルモットを飼えるほど平和で、他のクラスの子が羨ましがっていた、と言っていました。
そういった話を聞く度に、私は「祈ったことで神様が守ってくださっている」と思い、感謝をしていました。もちろん、小学生ですから多少の問題はありますが、極端に暴れるような子は全くいないようで、安心して息子を学校に送ることが出来ていました。そして「他のクラスの子は大変だなぁ、かわいそうだなぁ」と、どこか他人事でした。
ところが、半年ほど前、5月末ごろだったと思いますが「息子が三年生になったらクラス替えがあるから、もしかしたらその問題の生徒と同じクラスになるかもしれない」という不安が私の中で沸き起こりました。三クラスしかないので、そうなる確率が高い。「気が早い」と思いつつも、やはり心配です。そこで私は「どうか三年生で問題の子と息子が一緒のクラスにならないように」と祈りました。根本的な解決にはならないだろうけれど、せめて一緒のクラスにさえならなければ、被害は少ないだろうと思ったのです。
夏休み前になり、ある噂を聞くようになりました。その問題の子が転校するのではないか、という噂でした。
私は「まさか、ね」と思いながらも、もし転校してくれたら心配はなくなるな、と密かに期待するようになりました。
そして、二学期に入ったら、そのとおりになっていたのです。その問題の子は隣の小学校に転校していました。母親が「手に負えない」と隣の学区に住むその母親に託したのだという話です。
「神様が働いてくださったに違いない」
そう思いました。
学年の節目に転校するのならまだしも、二年生の二学期に転校するなんて、親の転勤以外ではあまり聞いたことがありません。
ただ、それだけであれば「偶然かな」と思える程度だったでしょう。しかし、私には以前にも同じような経験を二度しています。そしてその経験によって、私は信仰が入ったといってもいい出来事でした。
信仰を始める少し前、ちょっとしたことでマンションの向かいに住む戸建ての住民から怒鳴られたことがありました。その後、考えれば考えるほど理不尽だったと思い、毎回その家を見る度に悔しくて嫌な気持ちになっていました。
信仰を始めて少し経ったころ、ふとそのことについて神様に打ち明けてみようと思いました。「その男を見たくありません」と。
するとそのちょうど一ヶ月後、その家族が引っ越していったのです。本当に驚きました。
「神様が願いを叶えてくださったかもしれない」
それでも信仰が浅かったのもあり「偶然かも?」と、確信には至っていませんでした。
確信に至ったのは、その数カ月後「隣人がいなくならないか」と祈った時です。
その隣人は引っ越してきた当初は普通だったのですが、しばらくすると夜ずっと(おそらく独りで)怒鳴っている声が聞こえたり、家の玄関まで来て「私の悪口を言っている人を見ませんでしたか?」と聞いてきたりしていました。気味が悪くなった私は神様に「いなくなりますように」と祈りました。
そうしていると、またしても一ヶ月後に引っ越していきました。結局その隣人はそのマンションに数ヶ月しかいませんでした。
「神様が祈りを叶えてくださっている」
その二つの出来事で完全に信仰が入りました。
ですから、今回の息子の件も、神様が働いてくださったと思ったのです。
神様が祈りを叶えてくださっているのだから、私も神様の祈りを叶えられるようにならなければならない。そのように成長していかなければならない。
今回のようなことがあると、改めてそのような思いを思い起こし、感謝と共に信仰が更に強くなります。
ただ、同時に神様の願いを叶えて差し上げるほど成長していない自分が情けなく、申し訳なくなることもあります。
それでも、そこで卑屈になるのではなく、更に頑張ろうと奮起していかなければ。
今後も感謝の気持ちと共に信仰生活を続け、神様の願いを叶えられるものになれるようになりたいです。
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