
神様はいつも気付かれないように、隠密に助けてくださっている。
私はその御言葉を聞いた時「あぁ、あえてそうしてくださっていたのだ」と思い、スッキリしました。
これまでの信仰生活の中で、あとになって「神様が助けてくださったんだ」と思うことは多々あったのですが「これは今神様が助けてくださっているんだ」と進行形で感じることはなく、いつも数日後、もしくはずっと後になって気付いていました。
そして、私はそのことに関して罪悪感がありました。せっかく神様が助けてくださったのに、すぐに気づかずに申し訳ない、という気持ちがあったのです。更に、鈍感な自分に憤りを感じ、もっとすぐに気付いて感謝できるようにならなければ、といつも考えていました。そして、それに対して焦りのようなものさえ感じていました。
しかし、この御言葉で無理にすぐ気付こうとしなくても良かったんだ、と思えるようになり、気持ちが楽になりました。
神様は私達人間とは違う。
そう分かっていたのに、私はどこかで人間と同じように考えていたのかもしれません。
自分が人に対して良いことをした場合、すぐに気づいてもらいたいし、気付いてくれないと「鈍感な人だな」と思ってしまう。お礼を求めているわけではないけれど、気付いてくれないと、なんだか損をした気分になってしまう。
神様もきっと同じように感じているのだろう、と無意識のうちに考えていたのだと思います。
しかし、すべてを愛で行ってくださっている神様の思いはそんな浅いものではなかったのだと、改めて悟りました。それに気付き、自身の浅はかな考えを悔い改めました。
神様はもっともっと深いところで私達を愛してくださり、その思いは計り知れない。
私の行動はまだまだ「人によく思われたい」という動機が強いな、と思います。相手に対する愛で物事を行っているのではなく、自分がよく思われたいがために行っている部分が大きい。そしてそのような「自己中心的」な考えが残っているうちは、使徒になることはおろか、信仰者としてもまだまだだし、人を伝道することなど出来ないだろう、と思いました。
人からの評価ではなく、神様からの評価を得られるよう、出来る限り自己中心的な考えをなくしていきたい。そして、すべてを愛で行えるようになりたい。
そうすれば、自ずと伝道も出来るようになるのだろうな、と。
すでに悟っただろうと思っていたことでも、実際には全く悟れていなかった、もしくはいつしかズレていた、と気づくことが多々あります。
今一度、というか、常に、これまで悟ったと思っていることすべてにおいて「本当に悟れているのか? ズレてはいないか?」と問いつつ、ラプトさんが再三に渡っておっしゃっている「御言葉の復習」を行いながら、信仰をさらに深いものにしていきたいと思います。