「意外と出来るんだな」
今日、聖書を読み進めていて、そう思いました。
毎日最低一時間は聖書を読む。それを始めてまだ数日しか経っていませんが、それまで出来るかな? 続けられるかな? と思っていた聖書を読む時間を毎日一時間つくることは、それほど難しくないと思えるようになりました。
絶対にやる!と決めてしまえば、あとは実行するだけ。
今までも、やるまでは「大変かも」などと思っていても、実際にやり始めると思っていたほどではなかった、ということが多々ありました。歩き祈りもそうでしたが、やはり「無理」だと決めつけてやらないのが一番良くない。やってみて、その方法がダメなら他の方法を探す。
神様の御心のためにやるのだから、やる気があれば、必ず出来るように神様は導いてくれるのだと、改めて悟りました。
ヤコブの手紙1-22
御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わるものになってはいけません。
同時に「言われなければやらない」という体質をなんとかしなければ、とも思いました。ずっとずっと前から四本の柱のひとつとして聖書を読み進めることは宣布されているのにも関わらず、そこまで重要視出来ていませんでした。本来なら信仰生活の一部として、常に聖書と共に過ごしていなければならなかったのに、なんとなく後回しにしがちでした。
もちろん、読み続けてはいましたが、義務的で「読み込んで理解できるようになりたい」という意識が抜け落ちていた気がします。
そして今回、もし御言葉で宣布されなければ、それまで通り適当に聖書を読んでいたかもしれないと思うと、やはりその点も悔い改めなければ、と思います。
読めば自身を高めることができ、更に今後の人生において自身がすべきことさえも見つかる。
こんな希望に満ちた書物は、聖書以外にありません。
そして神様に喜ばれるのだから、読まない、という選択肢はありえない。
ただ、一日一時間読めたから満足しているようではダメだな、とも思っています。
いつも、私は決めた習慣をクリア出来ると、それだけで満足してしまいがちです。そうしていつしか義務的になってしまうのです。
信仰生活においては現状で慢心せずに「もっと出来るはずだ」と欲を出していかなければ、と自身に言い聞かせ、もっともっと深く聖書を読み込めたらな、と思っています。