今朝の明け方の時間、いつもどおり身支度をし、歩き祈りに出たのですが、途中、雨がパラつき始めました。
通常の歩き祈りは公園を通り抜け、住宅街を通って河川敷までが45分ほど、その後河川敷を30分くらい歩き、そのまま違う道を通って帰るルートなのですが、今朝はその河川敷に着いて、少し歩いたところで雨がパラついて来たのです。
「おかしいなぁ、雨が降る予報ではなかったのに」
そう思いつつ、一瞬引き返そうかと思ったのですが、そのまま行っても引き返してもかかる時間は同じだと思い、そのまま歩き続けました。
歩き祈りの時間に河川敷で雨に振られると本当に困ります。雨宿りする場所もないし、コンビニからも遠い。河川敷を離れたとしても夜中だからバスも通っていないしタクシーも走っていない。
焦りつつ、足を早めてみたのですが、すぐに冷静になりました。
神様に「雨が降らないように」と祈ればいいじゃないか、と思ったのです。
そして、それでも雨が降るのであれば、それはそれで何か意味があるのだと考えればいい、という結論に達しました。
それにしても、自分の信仰はまだまだだな、と思いました。どんな時でもうろたえず、すぐに神様を呼び求め、祈り求めるような体質になっていない。神様に意識を向けて、お祈りのために歩いている時でさえ、想定外のことが起きると焦ってしまい、神様に祈り求めずに自分自身で解決しようとしてしまう。せっかく信仰心を持って、神様に祈り求めることを知ったのだから、常日頃からそれが出来るようにならなければ意味がない。
とにかく悔い改めつつ、雨が降らないように、と祈りながら、河川敷を歩いていきました。
そうしているうちに、ふと、もしいま来た道を引き返したらどうなるだろう? と思いました。歩き祈りのルートではなく、信仰の道を、です。
信仰の道を進み続けるのではなく、信仰をやめて以前の生活に引き返したらら。
今、信仰のために行っているすべてのことをやらなくなる。夜中に起きることも、聖書や御言葉を読むことも、賛美することも、一週間に一度の断食祈りも、そして、こうして文章を書いて、投稿することもしない。個性才能を伸ばそうと努力することもなく、ただ日々を消化して歳をとっていく。
逆に、今信仰のためにやめたことをやってもよくなる。夜酒を飲みに行くことも、休みの日にぼーっと何もせずに過ごすことも、次はどんなクルマを買おうか、どんな高級時計を買おうか、と悩み、そのためにお金を貯めることも。そして「やっぱり家を買おうか」と考えにいたるかも。
そこまで考えて、なんて虚しい生活なんだ、と思いました。
そして、今の信仰生活を送れていることが、どれだけ幸せなのか、と改めて思いました。
辛いことはあります。毎朝明け方に起きるのは大変ですし、聖書を読むのも当初は苦痛でした。(今は聖書を楽しんでいます)断食はやっと慣れてきましたが、それでも早く時間が経たないかなぁ、と思ったりします。インスタへの投稿も、何も書けないときは悩みますし、個性才能を伸ばすにしても、すぐに壁にぶち当たって投げ出したくなったりします。
しかし、信仰の喜びを知った今、それらの辛いことが日々の生活からなくなったら、ただ退屈になるだけで楽になるわけではなく、むしろ「なにもない」「なにもしない」という辛さに押しつぶされてしまうだろう、と思いました。そして、自分のためだけに生きる虚しさを感じていたと思います。
更に身の回りに何かが起きた時、頼るべき神様がいない、というのは、絶望でしかない。
多少今が辛くても、それを乗り越えれば、とても大きな喜びが待っている。そしてそれは不確かではなく、確実にある、ということが信じられる、というのは、本当に素晴らしいことだと思います。
(断食祈りは、終えた後の食べ物がいつにもまして美味しく感じられるので、辛い後に喜びを感じる、といった意味からも、乗り越えた喜びをすぐに体感できる方法だと思います)
そして、なにがあっても神様が助けてくださるから大丈夫、と思えることは、絶対的な安心感にもつながる。
以前の自分を思い出すことで、現在の自分がどれだけ幸せか、ということを改めて感じることができました。そして今後の行く先が明確に分かっていて、それが幸せへの道だと確信しているというのは、本当に素晴らしいことなのだ、と実感しました。
今後もずっと信仰生活を続けていこう、後戻りは絶対にしない。
そのような強い思いが湧き出てきました。
そして、今朝の歩き祈り。
結局、その後雨は降らず、心配は杞憂に終わりました。
雨が降らなかったことを神様に感謝します。
同時に、今の自分だったら、もし歩き祈りの途中で土砂降りになったとしても、神様が私になにかを悟らせるために降らせてくださったのだな、と考えるだろうな、と思いました。
そしてまた違った気づきが得られるのではないかと。
どう転がっても、すべてを益に変えられる。
これこそが信仰生活をしていて良かったな、と思えることです。
この幸せな日々をより多くの人に知ってもらうためにも、もっと個性・才能を伸ばして実力をつけなければ、と思います。