気付いていなかった自身の罪

最近、ずっと雨続きで明け方の時間、歩き祈りに行けていなかったのですが、今朝起きて雨雲レーダーを確認すると、次に雨が降るのが六時ころだということだったので、数日ぶりに歩き祈りに行きました。

そしていつものルートを祈りながら歩いていたのですが、ふと三週間ほど前の歩き祈りの最中に起きた出来事について思い出しました。

その日も同じルートを歩いていたのですが、後半、バイパス高架下の歩道を歩いていると、行く先に大きな黒い物体があるのに気づきました。そのあたりは街灯がなくて暗かったので、近くに行くまでそれが何か分からなかったのですが、通りすがりによく見てみると、人が横たわっていました。

酔っぱらいか? と思い、面倒なことに巻き込まれたくないと考え、その場を立ち去ろうとしたのですが、もし死んでいたら? という考えがよぎり、このまま立ち去ったら気になるだけで何もしなかったことを悔やむと考え直し「どうしました? 大丈夫ですか?」と声をかけてみました。

どうやら寝ていたようで、私の声に気がついて「大丈夫です」という返答がありました。「よかった」と少しホッとしましたが、その人の顔を見てみると血だらけで、なぜか靴も履いていません。「救急車を呼びましょうか?」と言うと「呼ばなくても大丈夫です。ちょっと寝ていただけですから。朝になったら帰ります」という返答。

しかし、夜中の二時過ぎに歩道で血を流して寝ているなど、大丈夫なわけがない。とりあえず近くのコンビニに行き、ミネラルウォーターとウエットティッシュを買って戻り、それをその人に手渡しました。

そしてその際にスマホのライトを当てたのですが、顔が思った以上にひどく、目の上と頬が深く裂けて、腫れてしまっていました。

そこで「結構ひどいです。放っておけないので、救急車を呼びますね」と伝え、救急へ電話をして救急車を呼びました。

その後、話を聞くと、帰る途中で水路に落ちてしまい、その際にメガネをかけていた顔を打ち付け、それで眼鏡が刺さったのだということでした。そして靴もその時にその場で脱げてしまったと。それでも大丈夫だと思い、歩いて家まで帰ろうとしたのだけれど、途中で疲れてしまい、明るくなるまで寝て、それから帰ろうとしていたようでした。

その後、救急車が来るのを待って、その人が無事保護されるのを見届け、その場を離れました。

なぜそのことを三週間経った今になって書こうと思ったか、というと、今朝、歩いて祈っている時に、その時のことであらわになった自身の罪に気付いたからです。

最近、罪を悔い改めなさい、という御言葉が宣布されていたため、私は明け方の時間に「まだ気付いていない自身の罪を気付かせてください」と祈り求めていました。そして、以前からずっとあって、なかなか気づけず、悔い改めることの出来ない自身の罪が、その時に噴出していたな、と思ったのです。

私は人が倒れていると分かったのにも関わらず、面倒なことになるのが嫌だという考えが浮かび、助けようとせずにそのまま立ち去ろうとしました。

結局思い直して声をかけたのですが、それも「自分が気になるから」という理由で、倒れていた人を助けてあげよう、と思ったからではありません。

そして、最終的に助けたあとも「もしかしたら何かお礼がもらえるかもしれない」などという考えがよぎったのです。

私のしたことは、ただ「倒れていた人を助けた」というだけで、特別素晴らしいことをしたわけでもない。私でなくても他の人がそこを通りかかれば同じことをしていたでしょう。それなのに「自分はいいことをした」と高ぶり、更にその人から見返りを得られるかもしれない、などと期待してしまっていた。

今回、改めて自身の罪の根深さに気付かされました。

突発的に想定外のことが起きた時こそ、それまでの信仰が試されます。

私は「人を救いたい」と思うと同時に「その救った人から感謝されたい」という願望があったのかもしれません。たとえ伝道出来たとしても、救われた人が感謝すべきはラプトさんであって、神様であり、私は単に橋渡しをしたに過ぎないのに、なにを高ぶっているのか。ほんの少し、他の人より信仰生活を始めたのが早かっただけで、自分は何もしていないのに。

本当に恥すべきことです。

このことに関しては、これからも悔い改め、根本的に自身を変えていかなければ、と思っています。

自身の自分中心の考え方や薄情な感情、いやらしさなど、すべて無くすことが出来たら、どれだけいいか。

今後も、すでに悔い改めた、と思い込んでいるような罪も含めて、今自分はどんな罪を抱えているのか、どのような罪が地震時こびり付いているのか、を常に問うよう心がけていきたいです。

そして、罪をなくし、少しでも神様に近づけるようになっていきたいと思います。

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