雨と祈り

やはり今年の梅雨は雨が少ないように思います。

そしてたとえ昼間や夕方に雨が降っても、寝る前に雨が降っていても、明け方の祈りの時間になると止んでいる、という日が続いていました。

それは明け方の祈りの時間に歩き祈りをしている私にとってみたら、とてもありがたいことです。雨が降ったら、歩き祈りが出来ないからです。

それでも、さずがにそこまで都合よく雨の降らない日がずっと続くわけではありません。
数日前の明け方の時間、祈るために起きると、結構な大雨が降っていました。

私は「ついに雨が降ったか」と落胆しつつ、歩き祈りを諦め、仕方なくクルマに乗り込んで、クルマを停めて祈れる場所へクルマで行くことに。

その場所は、以前は深く祈れていたのですが、最近はあまり深く祈れていなかったため、極力避けるようにしていました。そして出来る限り歩き祈りをするようにしていました。

しかし雨なのだから仕方ありません。

「今日は大丈夫だろうか? しっかりと祈れるだろうか」

ワイパーの速度をマックスまで上げて打ち付ける雨を左右に飛ばしつつ、そのような思いをいだきつつ、クルマを走らせていました。

すると「深く祈れるように祈ればいいんだ」という思いが浮かびました。同時に「こんな単純なことを見失っていたのだ」と思いました。

他のことは必死に祈り求めようとしているのに、肝心なことを祈り求めていなかった。これこそ神様に祈り求めるべきことなんじゃないか、と。

そこで、その場所まで着くまでの間、深く祈れるよう、祈りました。

結果は…

それほど深くは祈れませんでした。すぐに雑念が浮かんできたり、少しの間記憶がなくなってしまったり。

「祈れば深く祈れると思ったのに」

帰りのクルマの中でそう落胆していると「祈ればすぐに願いが叶う」という思いで祈ってはいけない、という考えが浮かびました。どんな些細な願いでも、熱心に、必死になって、神様にすがりつくように祈り求めなければ、叶えてもらえない。

私は無意識のうちに「この願いなら簡単に叶えてもらえるだろう」「これは大変だからなかなか叶えてもらえないかな」などと、勝手に自身の願いの種類を選別していたことに気付きました。どの願いをいつ叶えるかは神様が決めることで、祈っている私が決めることではないのに。

その雨の日の「深く祈れますように」という願いであればすぐに深く祈れるだろう、と簡単に考えていました。
幾度となく願いを叶えてもらった経験から、あんなすごい願いも叶えてもらったのだから、今回の願いなどすぐに叶えてもらえるだろう、と高を括っていたのです。

慢心です。

このことについて、今一度悔い改めなければならない、と思いました。

明け方の時間、単に起きて祈ればいい、というわけではなく、どんなに些細なことでも、真剣に祈り求めなければならない。

ずっと歩き祈りが続いていて、比較的よく祈れていたので、根本的なことを忘れかけていました。

その翌日も雨でした。
そこで、その場所に着くまでの間、運転しながら悔い改め、再度、深く祈れますように、と祈りました。

そしてまた前日と同じように車内で祈ったのですが、その日は前日よりは深く祈れたのではないかと思います。

その後、雨予報が続いていたので「ずっと雨だとしばらく歩き祈りが出来ないな」と思っていたのですが、結局、明け方に雨が降ったのはその二日間だけで、それ以後は晴れ、または明け方の時間だけは雨が降っていない日が続いています。

もしかしたら、神様は私の祈りに対する慢心を気付かせるために、二日間の雨の日を設けてくださったのかもしれないな、と思いました。

同じことを繰り返し行っていて、それが比較的うまくいっていると、それに慣れてしまい、自身の行動を疑わなくなり、肝心なこと、重要なことを忘れ、それが出来なくなっていることがある。

今回はそれを思い知らされた気がしました。

これからは歩き祈りの際も、たとえ深く祈れたな、と思っても慢心せず、常に必死に祈り求める姿勢が身につくようにしたい。
更に、今後、雨の降らない状況がいつまで続くか分かりませんが、もし雨が降ったとしても深く祈れるように、どんな状況でも深く祈れるように、日々祈り求めていきたいです。

「歩き続けていなくても、一つの場所でずっとじっと(眠ることなく)長時間祈ることができるようになりたい」

その目標に向けて、今後も日々の信仰生活を過ごしていこうと思っています。

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