「奇をてらう」
読み方:きをてらう
気を引くために、奇妙で風変わりなことをする。奇を衒う。
数週間前、ある時急に私の頭の中にこの言葉が思い浮かび、その後、繰り返し繰り返し思い浮かんでいました。なぜなのか分かりませんが、とにかく気がつくとその言葉が頭の中に浮かんできて、ちょっとしつこいな、と思うほどでした。
ただ、これほど何度も何度も思い浮かぶということは、もしかしたら神様が私になにかを伝えようとしてくださっているのかもしれない、と思い直し、その意味について考えてみることにしました。
そして、一応調べてみたのですが、もともと知っていた言葉だったので「そうだよなぁ」という感想しかありませんでした。
信仰生活を始め、天の文化芸術を広げるためには、奇をてらうのではなく、コツコツと努力を重ね、実力を身に付けなければならない、というのは、これまでの御言葉で悟ってきたことですし、今の芸能人や文化人と呼ばれている人たちは、奇をてらって有名になっているだけだ、というのもラプトブログで学んだこと。
ですから、今になって、これを言われても「そのことは重々承知です」としか返せず「とにかく、今一度気を引き締めて、個性才能を伸ばすために努力していこう」と思うにとどまりました。
しかし、依然としてその言葉が頭から離れません。
そこで、今朝の明け方、そのことについて神様に聞いてみました。
すると、ふと「目指すべき未来のことを言っているのではない。今のことを言っているのだ」と思いが浮かびました。
それで、やっと気付きました。
私はそれまで、奇をてらうような人間を目指してはならない、と未来のことばかり考えていたのですが、それまでの自分、そして今の自分こそが、奇をてらっていて、そのことが友人知人の中に浸透しているから、なかなか身近な人に伝道出来ないのだ、という思いに至ったのです。
確かに私はずっと以前から奇をてらっていたような気がします。
若い頃から「普通は嫌だ」という強い思いがあり、人と違うことをすることで「自分は特別だ」という感覚を味わって満足をしていました。
そして陰謀論を知ってからは「新世界秩序」から「宇宙人」まで、嘘か真実か分からない情報を友人知人に話して変わり者の自分を演出していたのです。まさに奇をてらっていた。
ですから、その後、ラプトブログに出会い、ラプト理論を話しても真実とは信じてもらえず「またおかしなことを言っているよ」と思われていたのかもしれません。
そう思われている内は、伝道出来ない。
私はそれに気付いていませんでした。
もし私がラプト理論をもとに「陰謀論」を話したとしても、例えば「コロナは嘘」「コロナワクチンは危険、絶対に打たないように」と言っても、それは単に「ちょっと変わった人が話している話」で、興味深い話ではあるけど、本当のことかどうかは分からない、と半信半疑で受け取られていたのかもしれない。私という「ちょっと変わった人」が友人知人に真実を伝えても、真実を伝えているのだとは思われず「お、陰謀論! 面白いね、その話」という感想に留まってしまうのではないか、と。
まずはそのように思われている自分を変えなければならない。
友人知人に「ちょっと変わった人」ではなく「誠実な人」という認識をもたせ、私の伝えることこそが真実だ、と思われるようにならなければならない。
そうしなければ、いくら私がラプトブログを勧めたところで、真剣に読んでみよう、そして有料記事も購読して、私と同じように信仰生活をしてみようと思わないのではないか、と思いました。
今後はそのことを念頭におきつつ、過去の自分、そして今の自分が変わっていけるよう、日々コツコツと努力していきたいと思います。