今朝の明け方は歩き祈りをしてきました。
今日はいつも以上に静かでした。大晦日から正月の夜ふかしで疲れて、普段は起きている人さえも寝てしまっていたのかもしれない、などと思ったり。
そんな中で祈りながら歩いていると、いつもの感覚が戻ってきて、やっぱり歩き祈りはいいなぁ、と思っていたのですが、同時に前日にクルマで行った山での祈りとは全く違うな、と感じていました。
どちらも深く祈れることには変わりがないのですが、祈りの質が違うような気がしたのです。
歩き祈りをしていると、様々なアイデアや構想が浮かんできます。そして色んな感情も湧き出てきます。しかし、時々、それらが頭の中で散らばってしまって、収拾がつかなくなることがあります。結果、実際になにを得たのか、なにをやりたいのか、なにを悟ったのか、さっぱり分からなくなることがあるのです。
逆に山で祈っていると、細かいアイデアはあまり出てきませんが、じっくりと目をつぶり、腰を据えて祈ることが出来るからか、様々な考えが、まとまっていくような感覚がありました。
私はひとつのことが「良い」と思うと、そのことに執着する、という性格というか性質があります。それは自身の長所でもあり短所でもあるように思います。
良いことを続けられる反面、それだけに集中してしまって、他のことが見えなくなってしまう。
今回の歩き祈りにしても「これはとてもいい!」と思って始め、続けていたのですが、いつしかそればかりにのめり込んでいました。そして気になっていた散らばった考えも、その歩き祈りの中で改善していけば良いと思っていました。
そんな私に見かねた神様が「一度立ち止まって、考えなさい」と、私に風邪をひかせ、熱を出させて、無理やり歩き祈りが出来ない状況にしてくださったのかもしれない、と思いました。そうでもしないと、ただ突き進んでいってしまうから。
事実、もしあの風邪をひかなかったら、調子のいい歩き祈りを止めて、あえてクルマで祈りに行く、という考えは起きなかったでしょう。
しかし、歩けない状況に追い込まれたため、仕方なく、クルマで祈り場所に行くことになりました。
ただ、歩き祈りを始める前に見つけた場所に行くとすぐに眠ってしまい「やっぱりクルマでの祈りはダメだ」という印象が残り「歩き祈りの方が断然良い」という考えに落ち着く感じがありました。
それでも、次の日もう一日、クルマで祈りに行くよう感動があって(神様は忍耐強く私を導いてくださっていたのかもしれません)それに従ったところ、深く祈れる場所を見つけることが出来たのです。
歩き祈りがいいのはもちろんですが、私の場合は、それだけではなく、時にはじっくりと腰を据えて祈ることも必要だったのだと思います。だからこそ神様はそのように導いてくださったのだと。
なにごとにもバランスが必要だなぁ、とつくづく思いました。なにか一つに偏ってしまっては、本来すべきこと、本来出来るはずのことさえ、見失ってしまう。
今後は、基本的には「歩き祈り」を続けますが、散らばってしまった自身の考えをまとめるためにも、たまにはクルマで山に行って祈るということもしようと思います。あの場所だったら寝ないし!
ふと「じゃ、一ヶ月に一回、もしくは二週間に一回、日を決めて」という考えが浮かびましたが、打ち消しました。そうやって決めてしまうと、いずれそれも義務的になってしまうような気がしたからです。
神様に祈り求め、今日はクルマで行く日、という感動があった日に行けばいい。もし忘れてしまっていたら、歩いて行けない状況を神様が作って教えてくださるだろうから、そのときに行けばいい、という結論に至りました。
これで更に深い信仰生活に入れるかもしれない、と思うと、ワクワクします。
今年は今まで以上に希望に満ちた一年になりそうです。