ここ数日、なぜか数年前に参加した中学の同窓会を思い出していました。
同窓会と言っても、今現在連絡を取り合っている友人達が各々まだ付き合いのある他の友人を誘った感じの集まりで、大規模ではありませんでしたが、それでもそこそこの人数が集まっていました。
その当時、私は信仰生活を始めたばかりで、酒を止めてから数ヶ月しか経っておらず、誘惑に負けたくないという思いから、飲みの席に行くことを極力避けていたのですが、友人の誘いを断りきれずに参加したのでした。
しかし、行ってすぐに後悔することになりました。
私の隣に座ったのは、顔と名前は覚えているけれど、中学卒業以来会ったことのない同窓生でした。私は比較的誰とでもそれほど抵抗なく話すことが出来るのですが、その彼の話はパチンコや女性関係、そして何かいい金儲けの話はないか? といった話で退屈極まりなく、信仰生活を始めていたということもあって、本当に苦痛に思いながら聞いていました。
結局、その日は二次会の誘いを断り、半ば逃げるように帰ったのですが、それ以来、中学のころの友達とは、ほんのごく一部の友人とたまに連絡をとって会う程度で、同窓会のような飲み会はすべて断り、付き合いもなくなっていきました。
今になってなぜその同窓会のことを思い出していたのかな? と思っていたのですが、昨日の御言葉を聞いて、合点がいきました。
人々は楽しそうに装っているけれど、本当は苦しんでいる。そういう人たちを救っていかなければならない。
中学の友人知人たちは楽しそうに酒を飲んでいたけれど、実際には悩み苦しんでいたんだ。
明け方の祈りの時間、そのことを考えながら歩いていると、あるイメージが脳裏に浮かびました。
大きな穴があり、私はその穴の縁に一人で立って、その穴の中を見下ろしていました。ちょうどその穴から這い上がってきたところで、その穴の底にはたくさんの人がいて、彼らは酒を飲み、甲高い声で笑い、楽しそうに騒いでいました。私はそんな人達を鼻で笑い、穴から這い上がる際に付着した汚れをはらうと、その穴に背を向けてその場から立ち去りました。
まさにその当時の私の姿でした。
私はラプトブログによって穴から這い上がることが出来たのに、下に残された人たちを見下してあざ笑い、なにもせずにそこから立ち去ってしまったのです。
私はそのことを悔い改めました。
以前は自分もその穴の底にいたのに、自分が這い上がって救われたら、その場所にまだとどまっている人を見下し、バカにして、救おうともしない。これでは神様が何のために私を救ってくださったのか分からない。
しばらく悔い改めていると、またイメージが脳裏に浮かんできました。
私は立ち去ったその穴に戻り、再び穴の中を覗き込みました。まだ以前と同じように、たくさんの人が酒を飲みながら甲高い声で笑い、楽しそうに騒いでいます。そこで私は穴の縁から下に向かって「こっちに上がってきなよ」と叫んでみました。
しかし、誰一人として私に気付きません。
それでも根気強く叫び続けました。何度も何度も誰かが気づくまで繰り返し叫び続けました。すると、一人の男が上を向きました。そして私に気付きました。
私はその気付いた彼に向かって手招きをし「こっちの方が絶対にいいから、登ってきなよ」と言いました。その彼は戸惑った表情を浮かべましたが、そのうちに人をかき分け、穴の側面まで来ました。そして手を上に伸ばしてきました。私はその彼の手をとってあげようと思い、うつ伏せになって、穴の下に手を伸ばしました。そしてその彼の手を握り、穴の外に引き上げました。
これこそが、私がすべきことなのだ。
このイメージが脳裏に浮かんだ後、そう思いました。
私はこれまでの信仰生活で「人を救いたい」と願っていたのにも関わらず、どこかで救われていない人を見下していたような気がします。低俗でなにも考えず、ただ気楽に生きているだけでかわいそうな奴らだ、と。
しかし、好きでそんな生活をしているのではないのかもしれない。ただ、それ以外に楽しいと思えることがないからそうしているだけで、実際には虚しさを覚えているのかもしれない。そして何より苦しみながら日々を過ごしているのかもしれない。
以前、自分がそうだったように。
そんな人達に「素晴らしい世界がある」と教えて手を差し伸べ、引き上げてあげなければならない。
今朝の明け方の祈りの時間、そのように強く思いました。
実際に中学の同級生を救えるかは分かりません。
今までクダラナイ与太話ばかりをしてきた私の話を彼らが真剣に聞いてくれるとは思えないのです。もしかしたら「やばい新興宗教にハマったっぽいから近づかない方がいい」と思われてしまうかもしれない。
ただ、なにもしなければ、穴に背を向けて立ち去るのと同じです。
どんなに楽しそうに見えても実際には苦しんでいる。
それを念頭に置いて、決して馬鹿にするのではなく、ただ知らないだけなのだ、洗脳されているだけなのだ、と考えて、どのようにしたら彼らを救えるのか神様に祈り求め、知恵をいただいて、苦しんでいる人たちを救っていけたらな、と思います。