好き嫌いで判断しない

会社に苦手な人がいます。

仕事も出来るし頭もいい。しかしサボっているのが目につくのです。

あからさまにサボっているのではなく、バレないようにしているようで、少なくとも私の前では仕事をしっかりしています。しかし、私が会社に戻る直前までネットを見ていたりスマホをいじっていたり(おそらくゲームをしている)しているのが分かるのです。

これまでそれがストレスでした。

一応、私の前ではしっかりやっているので、指摘も出来ませんし、全体の仕事に支障は出ていない。

ただ「ずる賢い人だなぁ」という印象が常にありました。

そして、サボっているのがバレていないと思っているのかな? と思うとバカにされている気分にもなりました。

しかし数日前、その印象が変わる出来事がありました。

会社の会議で彼の意見を聞く機会があったのですが、私の印象とは裏腹に、意外にも会社のために色々なことを考えていたのです。そして彼なりに考えて行動していました。

多少決めつけの部分はありましたし、自己中心的な意見や、自分の行動を正当化しようという意図が見え隠れしましたが、間違ってはいない。

私は一度どのような人かを判断すると、ずっとその判断が残ってしまい、逃れられなくなってしまう、ということが多々あります。

ですから、悪い印象や苦手意識が根底にあるとそれに引きずられて、いいところが見えなくなってしまう。

その彼は私が思っているほど悪い人間ではないのかもしれない、と思い直しました。

彼の意見に対しても私自身の彼に対する印象が邪魔をして、ひねくれて受け取っていただけなのかもしれない。

そう思ったのです。

同時に、私は自身がズレていることに気付きました。

神様が私を信仰に導いてくださったのは、人を裁くためではなく、人を救うため。

私には人を裁けないのだから、たとえ人から嫌な気持ちにさせられたとしても、自分の気持だけでどのような人か決めてしまわず、判断は神様に委ねなければならない。

もし神様がその人を悪だと判断されれば裁かれるし、良しとすれば救われる。

他人を私自身の感情である「好き嫌い」で判断してしてはいけない。

人を見るときも自分中心ではなく、神様を中心に見なければ、と思ったのです。

もし神様がその人を救いたいと思っていたとしても、私自身の感情に流された身勝手な判断で「嫌い」という結論を出してしまったら、私はその神様が救いたいと思っている人を救うことが出来ない。

私のすべきは、ただただ救われるべき人を救っていくこと、ラプトブログに導いていくこと。そこに私の不確かで自己中心的な判断はいらない。

そう考えると、これまでの人間関係を見直していかなければな、という思いに駆られました。

もしかしたら、苦手意識を持っていた相手で、すでに連絡を取らなくなった友人知人の中にも救われるべき人がいるかもしれない。

長年に渡ってこびり付いてきた悪い習慣は、簡単には取り去ることは出来ません。それを日々痛感しています。特に感情の部分では一時的に「こうしなければ」と思っても、気がつくと真逆のことをやってしまっている。

それでも、日々、悔い改めて、少しずつでも変わっていけたらな、と思います。

そして私の悪い部分、罪なる部分をなくしていき、どのようにしたら多くの人を救えるようになるかを神様に祈り求めていきたいと思います。

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