私はこのところずっと自尊心をなくすよう悔い改めています。
しかし、ここにきて、自分はダメな人間なのではないか、と落ち込むようになってしまいました。
昨日、私はあることで相手を苛立たせてしまい、それに対して私が突発的に怒り、その後、自分自身の怒りの感情に対して自己嫌悪に陥ってしまったのです。
そして、自分は頭の回転も遅く、最近はミスも多いし、本当にダメだ、と考えて、どんよりとした気持ちになり、更には少し前に馬鹿にされたのも、実際に自分が馬鹿でそれを見抜いたからなのではないかと思うようになってしまいました。
振り子のように、自尊心から劣等感、自虐心へとおもりが真逆にふれてしまった感じです。
これではいけない。このままではいけない。
そう思い、すぐに必死で神様を呼び求め、祈り求め、賛美しました。
それにしても、本当に「なぜ?」と思ってしまうほど、ここ最近になって感情に流されるようなことが起きます。
以前であれば、すんなり流せたようなことが気になったり、ちょっとしたことで落ち込んだり。こんなこと、今までなかったのに、と思うことが立て続けに起こっているのです。
これもサタンの攻撃? それとも単に自分自身の信仰が足りない?
とにかく明け方の祈りの時間、神様に祈り求めなければ、と思い、今朝の祈りの時間は前日の自身の罪について悔い改め、どうしたらいいのか祈り求めながら歩きました。
河川敷の中間地点を過ぎた辺りになって「バランスが大事だ」という言葉が頭に思い浮かびました。
それについて考えると思い当たるフシがありました。
御言葉で聖書を読むことの重要性について語られていたため、私はここ最近、空き時間には必ず聖書を読むようにしていました。とにかく聖書を読むことが足りなかったと思ったからです。
しかし、いつしかそればかりになっていました。
それに気付いたとき、頭の中にレーダーチャートが浮かびました。五角形や六角形の角に項目が書かれていて、そこの段階に点をつけて線で結ぶ表です。その表がいびつで、現在は聖書と祈りだけが突き出ているような形になっていました。
私はひとつのことをやろうと決意すると、そればかりに集中してしまって他のことがおさなりになってしまうことが多々あります。そして今回も、聖書を大半の時間に費やすようになり、そればかりに集中してしまって、自身の個性才能を伸ばす努力をしなくなっていました。それよりもまずは聖書を読まなければ、という焦りにも似た感情に囚われたいたのだと思います。
そして聖書を読むことが義務的になりつつあり、個性才能を伸ばすこともしなくなったために、信仰生活において得られる肉的喜びや希望が失われつつあったのかもしれません。そして、サタンにそこを突かれてしまったのかも。
もしかしたら、神様があえてそこをサタンに突かせて、私にそのことを気付かせてくださったかもしれない。
今、これを書いていて、ふと、そう思いました。
とにかく信仰生活において、おざなりにしてもいいことなど一つもないのだと改めて思いました。すべてをバランスよく行うことで、喜びと希望に満ち溢れ、充実した日々を送れるようになり、それによってサタンに打ち勝つことができるのだと。
そのことを常に意識つしつつ、今後も信仰生活を続けていきたいと思います。