ここ数ヶ月、私は信仰をより深いものにするために、あることを習慣化していました。
それが個性才能を伸ばすためには必要だと思っていたのです。
しかし、その自身の行動に疑いを持つようになりました。
そのきっかけは、先日の投稿で書いたのですが、祈りの時間になぜかその日の仕事でのクレームについて思い浮かび、それを自身の信仰生活に置き換えて考えてみたことによります。
自分では正しいと信じて行っていても、実は間違っていることがあるのではないか。そのようなことはないだろうか、と考えた時に、その習慣化していることが思い浮かんだのです。
よく考えてみれば、それをしなさい、という御言葉などなかったのに、なぜかそれが自分にとって良いと思い込んで実行していました。
数日前の御言葉の中で、ラプトさんが「常に空いた時間何が出来るかを考えている」とおっしゃっていました。私もそのようにしなければ、と思っていたのですが、私自身の浅はかな考えで何かをやったところでたかが知れている。それなら、これまでに御言葉で宣布された「やるべきこと」を忠実に守っていくことの方が重要なのではないか、と気付きました。
そして更に、それらをするにあたって義務的にならないように気をつけなければならない。
例えば、毎日聖書を一時間読むにしても、その御言葉が宣布されてからは、出来る限り毎日一時間時間を作って聖書を読むようにしていたのですが、最近になって、一時間読んだらそれでいい、という考えが自身の中にあることに気づきました。
その日、朝一時間聖書を読む時間が出来て、一時間読んだとしたら、たとえそのあとにも聖書を読める時間が出来たとしても、今日はもう一時間読んだからいいや、と考えて、聖書を開こうともしない。本来「聖書をたくさん読んで神様の考えに近づく」ということが目標なのに、単に「聖書を一時間読むこと」が目標に変わってしまっていたのです。
ずっと以前の御言葉で「断食をしても、祈らなければ単なるダイエットだ」とラプトさんがおっしゃっていました。
それに関しても、やはり本来の「肉の欲求を削ぎ落し、霊的に敏感になれるように」という目的を忘れ、いつしか単に週一回断食をすればそれでいい、という考えに変わっていました。
私は、気を抜くと、すぐに信仰生活におけるすべてのことが義務的になってしまう。
単に「やっているから大丈夫」という安心感を得たいがためにやっていることが多々あるのです。
そんな姿勢では、神さまの祝福など受けられるはずがありません。
もっと真剣に祈り求め、すべてのことを神様のために、と心を込めて行っていかなければならない。
今一度、自身の送っている信仰生活を細部まで見直して悔い改め、信仰を深めて、神様の祝福を受けられる身体になりたい。
今回のことで、改めてそう思いました。