何度も悔い改める

ここ最近、特に気をつけていることがあります。

それは、日々の生活の中で普段と違ったことが起こっても、それを短絡的に神様がしてくださったなにかだとは考えないことです。

私はそれまで、本当につい最近まで、自身の身になにかが起きるとすぐに「これは意味がある!」と考えて、その意味を見付け出そうと必死になっていました。そして自分勝手に解釈して、それを「悟った!」と勘違いしていることが多々ありました。

それに気付かされたのが、数ヶ月前の朝会の御言葉を聞いた時でした。それは私に対する裁きだと思えるほど深く刺さり、その後、自身の信仰のズレについて、悔い改めていました。

実は、その事については、以前、悔い改めたことがありました。自身が理屈っぽく、何事にも理由をつけてしまう癖を治そうと悔い改めていたのです。

そのことをブログに書いていたことを思い出し、さかのぼってみてみると、去年の12月頃のことでした。

それなのに、私は悔い改めたことさえも忘れてしまっていました。そして同じ過ちを繰り返していた。

私は「悔い改め」に関して甘く考えていたのだと思います。

ただ「神様、悔い改めます」と言って祈っただけでは、そう簡単に変わることが出来ない。何度も何度も繰り返し悔い改めて神様に祈り求めなければ、自分を変えることは出来ない。それなのに一度「悔い改めます」と神様に祈っただけで「よし! 悔い改められた」と満足し、それについてはそれ以上悔い改めようとはしてこなかったのです。

今回、そのことを痛感しました。あのときはあれほど「変わろう」と願っていたのに、いつの間にか以前と同じように戻ってしまっていました。

そのような私を見て、神様はお怒りになったのだと思いました。

裁きだと思える御言葉を聞いてからは、なにかが起きてもすぐに結論を出さず、しばらく様子を見るように心がけていました。さまざまな可能性について考えはしますが、それが自身の得た悟りだと断定しないようにしたのです。

そうすることで、それが起きた当初とは全く違った意味に気付いたり、逆に全く意味がなくて、ただ単に身に起きただけだった、と思えるようになったりしました。

そうしているうちに、ふと以前、自身が「悟った」と思い込んでいた中に、実際には悟れていなかったり、全く違ったズレた考えなのに、それを「悟り」だと勘違いしていた、というようなことが混ざっているのではないか、と気になるようになりました。

そして、過去の自身の投稿したものを少し読み返してみると、実際にそのように見受けられることがありました。(誤字脱字や表現が変な箇所も目に付きました)

同時にインスタへの投稿やブログは「伝道」するという目的もあるけれど、自身の信仰を振り返り、その時間違っていなかったか、ズレていないか、一度悟ったことを忘れてしまっていないか、などを確認できる、自身の成長のためにも、とても意味があるのだと気づきました。

まだまだ、以前「悟った」と思っていても、勘違いしていたり、単に私自身が考えた理屈だったり、実際には違う悟りを神様が与えようとしてくださっていた、といったことが多々あると思います。

今一度、自身の過去の投稿やブログを読み直し、自身の思い込みで得た間違った悟りを正していかなければ。

そして、過去の御言葉も復習して、間違った解釈をしていないか、聞き逃している部分は無いか、自分の都合のいいように理解してしまっていないか、などを確認しなければな、と思いました。

そのようにして、さらに信仰を深めていけたらな、と思っています。

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