昨日、ベランダの掃除をしました。
今住んでいるマンションはベランダが広いため、そこにウッドパネルを敷き詰めています。
当初はそこでお祈りするのもいいな、と思っていたのですが、やはり「家の中」という甘えがどうしても出てきてしまい、すぐに眠くなってしまったり、子供たちが起きてきてお祈りがそれ以降出来なくなったり、といったことが起きるため、結局ベランダで祈ることはほとんどなく、明け方の時間は歩き祈りや車で山に行く、といった方法をとっています。
それでも最近は少し暖かくなってきたので、歩き祈り後に、少しの間、ベランダで祈るものいいかな、と思っています。
せっかくウッドパネルを敷き詰めて、快適にしたのですから。
ただ、雨が続いたあとに晴れた昨日、ふと、半年ほど前にこのウッドパネルを敷いて以来、その下を掃除していないけど、どうなってるんだろう? と思いがよぎり、恐る恐る剥がしていました。
案の定、大分汚れていて嫌な臭いさえしてきました。
大気中の「何か」が雨によって落ちてきて積もったのだと思います。
表面はいたって綺麗で、見た感じもとても良かったのに、見えない部分は汚れ切っている。
それを見た時「私自身もそうなっていないだろうか」と思いました。
信仰生活を始めてから数年が経ち、やるべきことを出来る限りやっている。小さな罪はあれど、悔い改める日々を送り、大きな罪も犯していない。
しかし、どうしても上辺だけになってしまって、形式的になっていることが多々ある気がする。特に明け方の祈りに関しては、そう思える日がある。
本当に心から祈りを捧げているのか? 本当に心から神様の御心を成したいと思って真剣に必死になって祈り求めているのか? 単にその時間に起きて、ただ歩いて、なんとなく祈っている感じになっていないか?
悔い改めも、とりあえず言ってみて、それで良しとしていないか? 心から悔い改めようとしているのか?
そう突き詰めていくと、やはりまだまだベランダのウッドパネルの下のように、見えない部分に汚れが残っているのだろう、という気になってきたのでした。
もっともっと真剣に祈り求めなければならない。
綺麗に見える部分を見て満足するのではなく、そこを引きはがして、更にその下を見ても綺麗かどうかを考えなければ、真に綺麗になったとは言えない。
そのような思いに至りました。
昨日は、その後すべてのウッドパネルを引き剝がして、水を流し、デッキブラシで擦って、洗い流しました。(高圧洗浄機が欲しいデス)
ただ慣れないことをしたせいか、いつも以上に疲れが残ってしまっていて、危うく明け方の祈りの時間、寝過ごしそうになってしまいました。しかし、せっかく悟ったのに、明け方の祈りを守らないんじゃ意味がない、と自身を奮い立たせ、なんとか起きて、歩き祈りに行ってきました。
深く祈れたか、というと、よく分かりません。疲れもあって、集中が途切れた時間もありました。ただ「自分はまだまだだなぁ」と思いつつも、頑張って、日々自分なりに悟ったことを信仰生活に活かして、積み重ねていくしかないな、と前向きに捉えて、頑張ろうという気にもなれました。
やるべきことは山ほどある!
ベランダは、またウッドパネルを敷き詰めてしまったので、下が綺麗になったというのは表向きは分かりません。でも、気持ちはすっきりしました。
今後も定期的に掃除をしつつ、見えないところも綺麗に保っていきたいと思います。