よく行く蕎麦屋に、普段あまり見ない雑誌が置いてあります。
婦人向けの雑誌で、その蕎麦屋に行くたびに妻がそれを手にとってパラパラとめくっているのですが、そこには高級品に身を包んだマダム達のファッションやお金持ちの人が使っているであろう日常雑貨や家電、そして著名人の豪邸などが掲載されていて、私も向かい側から、なんとなく覗いたりしています。
妻は「このお皿、こんな値段がする」「こんな高いもの使いこなせない」などと言いながらも、羨ましげに掲載されている写真を眺めています。
私はというと、もし有り余る金を手に入れたら、こういう物も欲しくなるのかな? などと考えたりするのですが、今の感覚ではありえない、という結論に至っています。
ただその雑誌に載っていた海の見える高台の豪邸を見た時は、こんな家に住んで生活出来たらいいなぁ、などという思いがよぎりました。波音に耳を傾けながらベランダでコーヒーを飲み、本を読んでのんびり過ごすなんて、最高じゃないか。
そして、静かな場所だろうから、信仰生活をしている今、個性才能を伸ばすための努力も捗るし、祈りにも集中出来るのではないか、と。
しかし、すぐにその考えを打ち消しました。
そんなところにいたら怠惰な感情に支配され「もっと成長したい」という気には到底なれないと思ったからです。
肉的に成長したいのであれば、霊的に成長しなければならない。
霊的に鈍感な私は、実際に霊的に成長しているかが分からないながらも必死で霊的に成長しようともがいているのですが、その根底には肉的に成長したいという思いがあるからです。
もし有り余る金を手に入れて、豪邸でのんびりとした生活が出来る立場になってしまったら、肉的に成長しよう、という気も起こらず、たとえ信仰生活を続けたとしても、心に余裕が出来てしまって、いずれ適当にやるようになってしまうことでしょう。
では、その手に入れてしまった大金を「信仰の妨げになるから」と言って手放すことは出来るか?
それもおそらく難しいと思います。
マタイによる福音書19章16節に出てくる青年は、財産を捨てられずに立ち去りましたが、私もいざ大金を手にしてしまったら、と考えると「それを手放せる。捨てられる」と答えたい思いがありつつも、実際には捨てられないのだろう、と思うのです。
少なくとも、現時点ではまだまだ二心があり、捨てられていない物がたくさんあることを認めざるを得ない。
神様は霊的に成長しなければ、肉的に与えてくださらない。未熟のままで与えても、神様のために使わず、自分のために使ってしまうとわかっているからだ、と以前の御言葉で学びました。
本当にそのとおりだと思います。
もし今の私が大金を手に入れてしまったら、この金は神様が与えてくださったのだ、とたかぶり、神様のため、御心のため、と言いつつ、実際には自身の欲のためにそのお金を使ってしまうように思います。
そして、ズレた信仰に気付かず、霊的に成長できないまま日々を無駄に過ごし、死んだあとに後悔するようになってしまうでしょう。
いづれにしても、霊的に幼い今の私に、神様は大金など与えてくださらないだろうから、無駄な心配をせずに、安心して信仰生活を続けていこうと思いました。
そして、たとえ将来大金を手に入れられるようになったとしても、たかぶらず、自分の欲を満たすためにその金を使うのではなく、神様に感謝して、すべてを神様の御心のために使えるように、そのことを「無理をして」ではなく、心底から行えるようになりたい。
そのためにも、もっともっと信仰を深め、常に神様に意識を向けて生活できるよう、成長しならなければ。
私にとって、本当に厄介な「二心」をなくせるよう、今後も祈り求めていきたいと思います。