伝道出来ていないという現状

ここ最近(というか以前からずっとではありますが、ここ最近特に)私はあることが気になっていました。

それは、友人知人、家族親戚、誰一人として伝道できていない、ということです。

これまでの信仰生活で、幾度となく伝道しようと試みました。まずは陰謀論を話し、そこからラプトブログのリンクを送ったり、実際に体験した不思議なしるしを話してみたり。神様とはなにか、と聞かれ、説明を試みたこともありました。しかし、誰一人として伝道は出来ていませんでした。

以前、まだ独身だった頃、私は毎晩のように飲みに出歩き、また仕事上で交流会などに参加していたので、比較的多くの友人知人がいました。

しかし、信仰生活を始めたことで、夜出歩くことはなくなり、交流会も以前ほど積極的には参加しなくなったため、友人知人たちと疎遠になっていきました。

信仰生活を始めた当初は、誘惑に負けたくない、という気持ちが強くありました。酒を飲まない、と決めても、その場に行って勧められたら飲んでしまうかもしれない。そして飲んでしまったら、その時点で信仰生活が奪われる。それが怖くて、誘いはすべて断っていました。

しばらく信仰生活を続けていると、さすがに勧められても酒を飲もうという気にはならない自信がつきましたが、その場に行くことで帰宅が遅くなり、明け方の祈りに影響が出る、という理由から、たとえそれが単なる会食でも行く気になれませんでした。

その後、コロナ騒動でそういった誘いもなくなったのですが、そのせいで連絡さえもとらなくなり、ほとんどの友人知人と疎遠になっていました。

それが最近になって、だいぶコロナに対する警戒心も薄れてきたのか、ポツポツと(仕事絡みではありますが)会食する機会が出てきました。

ただ、明け方の祈りのことを考えると「仕方なく」という気持ちが強く、積極的に行きたい、という気持ちにはなれませんでした。

それでも実際に行ってみると、そこで新たに悟ることもあり、なにより、明け方の祈りにそれほど影響が無いことが分かりました。

以前書いたことがあるのですが、たとえ数時間しか寝れなくても、一日問題なく過ごすことが出来ると分かり、歩き祈りのおかげで、祈りの途中に寝てしまうことがなくなった、ということもあり、たまに会食に行っても問題ないな、という結論に達したのです。

そこで早速以前よく一緒に飲みに出歩いていた友人二人に声をかけ、飲みに(私は飲みませんが)行くことになりました。

それは以前のように、単に楽しむという理由ではなく、伝道のため、彼らを救いたいという一心からです。

もし伝道が出来ないとしても、少なくともワクチンの危険性を訴えることは出来る。

最近になって、急にコロナワクチン摂取が身近に感じるようになってきました。以前から海外の友人は摂取したという話は聞いていましたが、日本ではそれほど聞きませんでした。それが、ここ一ヶ月ほどでガラリと様相が変わってしまいました。

どうやらテレビで煽っているようですね。私はテレビをほとんど観ないので、ノーマークでしたが、たまに行く実家で観るワイドショーでは、本当にワクチンを打つように促す報道がなされていて、驚いてしまいました。更に兄弟姉妹のインスタへの投稿を見て、多くの兄弟姉妹の身近な人がワクチンを打ってしまったという現実を知り、本当に危機感を覚えています。

私はラプト理論のおかげで「ワクチンなど絶対に打たない、これほど危険なものを打つなんてありえない」という確固たる意思がありますが、多くの人も同じように感じていることなのだと思っていました。

しかし実際には、ワクチンを打てることなら早く打ちたい、と考えている人が多数いて、迷っている人も見受けられますが「絶対に打たない」という確固たる意思がある人は極めて少ないのだと気づきました。

おそらく私の友人知人も同じでしょう。もしかしたらコロナに関してもまだ恐れがあるかもしれない。

それらの不安を拭い去るためにも、会って話さなければ、と思ったのです。

何のために私はこの知識を得たのか。

何のために私は信仰生活をしているのか。

人を救うためなのだから、行動しなければ。

自分の信仰が奪われる、と不安になっている期間は過ぎました。祈りの時間に起きれなくなるかもしれない、という懸念も(ほぼ)なくなりました。

自分のことだけを考えて何も行動しない、という愚行をおかしてはならない。

そう自戒し、今後はできる限り行動に移していこうと思いました。

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