負けたままでいたくない。
今朝、そう強く思い、あえて明け方の祈りは山に行きました。
数日前、サタンに負けて、祈りの最中に寝てしまったため、もうあの場所に行くのは止めたほうがいいかと考えていました。また別の場所を探そうかと。
しかし、せっかく神様が導いて与えてくださった場所なのに、そう簡単に諦めてしまっていいのか? サタンに奪われてもいいのか? という思いがこみ上げてきました。
私は子供の頃から誰かに負けても「まぁ、いいか」で終わらせていました。負けず嫌いとはほど遠かったため、なにをしても中途半端。サッカー部に入っていましたが補欠、学校の駅伝の強化選手に選ばれましたが補欠、水泳の強化選手に選ばれましたが補欠、更には趣味においてもすべて中途半端で終わっていました。
「冷めていた」といえば、クールに見えてかっこよく思えますが、実際には「真剣に取り組んだのに負けてしまった」というのが嫌だったのだと思います。適当にやっていたのだから負けても仕方がない、という逃げ道を作っていたのかもしれません。「本気でやれば勝てたかもしれないけど、本気じゃなかったからな」などという姑息な考えもあったのでしょう。結局、それまで人生においてなにかを本気で真剣に取り組んだことなどほとんどありませんでした。
御言葉に出会い、物事を本気で真剣に取り組むことの大切さを学びました。
聖書を読むにしても、明け方の祈りを守るにしても、賛美を続けるにしても、御心を成すために自身の個性才能を磨くにしても、真剣に取り組まなければ、サタンに負けてしまう。
そしてサタンに負け続けて「まぁ、いいか」で終わらせてしまったら、すべてを失ってしまう。逆にサタンに打ち勝てば「勝った!」という高揚感だけでなく、実際に得るものも大きい。
だから、以前のように「負けてもいいや」という考えでは信仰生活を続けていけないのだと思い、それまで身についていた自堕落な性格や考えを変えていこうということを念頭に置いて日々を過ごすようになりました。
今回、山の祈りに関しては、その場所を捨てて逃げてしまおうかという考えに陥りましたが、サタンに攻撃されたということは、サタンに勝つチャンスを得た、と考えて、逃げずに立ち向かうことにしました。
そして今朝「サタンに打ち勝つ」という強い意志の中、祈りの場所で祈り始めました。
ラプトさん、川田さん、ナナさん、エリカさんに感謝しつつ彼らのために祈り、新たに十二弟子に選ばれた三人の方のために祈り、また十二弟子候補の方たちのために祈り、そして同じ時間に祈っているであろう兄弟姉妹のために祈りました。
ときより頭痛がしたり、雑念が入ってきたりもしましたが、すぐに追い払うことができ、いつも以上にじっくりと祈ることができたと思います。
「奪われそうになった場所を取り返した」
祈り終わったあとは、そんな気分でした。前回サタンに負けた分は取り戻せたかな、と。
霊的に鈍感な私でさえ感じるサタンの攻撃、霊的に敏感な兄弟姉妹の苦痛は計り知れません。そしてラプトさんが受けてきた苦痛ともなると想像を絶します。
今後も皆様のために少しでも力になれれば、と願いつつ、明け方の祈りでサタンに負けないよう、祈り続けていきたいと思います。