信仰生活をはじめ、様々な不思議なしるしを経験したことで、自分の身になにか起きた時、これはどんな意味があるのだろう? と考える習慣がつきました。それが些細なことであっても、もしかしたら神様がなにかを私に伝えようとしてくださっているのではないか、と思うようになったのです。
最近、私は体重が気になっていました。
もともとそれほど太りやすい体質ではなく、独身時代、暴飲暴食をしていた時期でもそれほど体重に変化が無かったため、これまで体重を気にしたことはあまりなかったのですが、ここにきて、少し増えているかな? と思うようになりました。おそらく歳のせいもあるとは思うのですが、少しお腹に肉がついてきているような感じがするのです。そして実際数キロ普段よりも増えています。
そこで、多少「食」に気を使うようになりました。と言っても、世間一般で言われているダイエットの類ではなく、朝食はいつもどおりコーヒーのみ、間食を極力避け、食事は腹八分目、といった程度のことです。もしこれで増え続けてしまうようであれば、また考えなければならないと思っていますが、今の所、体重が増えてはおらず、少し減っている感じがするので(断食祈り明けに量ったので多少チート気味ではありますが)とりあえずは今の感じを続けようと思っています。
そんな中、数日前の昼飯時、仕事で外を回っていたため、最近良く見かける唐揚げ専門店に行きました。そこで弁当を買ったのですが、直前まで少なめでいいや、と思っていたのに、なぜか通常の弁当に別の種類の唐揚げを二つ付け、更に「ごはん大盛りが無料ですがどうしますか?」の問いに、反射的に「お願いします」と答えていました。これまでどんな時でも大盛りなど頼んだことがなかったのに、です。
頼み終わった直後、なんでこんな頼み方をしたのだろう? と不思議に思いました。
そして案の定、多すぎて食べ残してしまい、さらに食べ過ぎで気持ち悪くなってしまいました。
これもなにか意味があるのだろうか?
普段あまり起こらないことを体験したため、考えてみました。
そして思い至ったのは、信仰生活において、いくら普段、信仰を守ろうと気を使っていても、なにか物事に直面したときに、正しい判断が出来なければ意味がない、ということでした。
御言葉を伝えるにしても、ワクチンの危険性を訴えるにしても、実際に伝えるべき相手、訴えるべき相手と直面したときに、その場でその相手を説得できる的確な言葉を選んで伝えられなければ、ラプトブログで得た正しい知識も無駄になってしまう。むしろ自身の言葉が逆効果となって、その人を神様から遠ざけていまうことにもなりかねない。とっさに正しい判断が出来るようにならなければ、と思ったのです。
ワクチンの危険性については、ただ一方的に「危険だから止めたほうがいい」と言うのではなく、話題に出たときの相手の反応を見て、相手がワクチンを盲信しているのか、それとも少しでも安全性を疑う気持ちがあるのか、といったことを見極めつつ、相手によって攻め方を変えていくべきだと思いました。
伝道についても、以前の御言葉にもあったように、その人その人に合った切り口を見付け、それを突破口にして、伝えていかなければならないと。
ただ、もしかしたら、今回の唐揚げの件で、神様は全く違ったことを伝えようとしたのかもしれません。本当はなんの意味もなかったのかもしれない。
それでも、なにか起こるたびに、神様がなにを私に伝えようとしていたのか、と思いを馳せることで、神様に意識を向けることができ、その繰り返しによって、より信仰心が深まっていくのではないか、と思っています。
今後もそのようにして、神様にできる限り意識を向けられるようになれたら、と思います。