長い雨の日々が終わり、やっと晴れ間が見えるようになりました。
公園に行くと蝉の鳴き声が聞こえます。
以前、外国人の友人が日本に遊びに来たことがあったのですが、その友人と公園脇を歩いているとき、蝉の鳴き声に対して「この騒音は何?」ときかれたことがありました。
日本人の私にとってみたらごく自然で「夏だなぁ」と感じる季節の虫の鳴き声なのですが、外国人にとってみたらうるさい「騒音」に聞こえるのだ、と驚きました。
そこで、蝉の鳴き声だと伝えようと思ったのですが「蝉」の単語を知らなかったため「ほら、地下に七年(今調べたら3-17年だそうです)いて、地上に出てきたら一週間しか生きられない虫。何て言うんだろ?」と日本では誰もが知っている蝉の話をしました。しかし全く伝わらず、結局「蝉」という単語を調べてやっと理解してもらえました。
その友人は、そもそも蝉を見たことがなく、その「地下に七年、地上で七日」の話も全く知らなかったため、しばしその友人と「その蝉の気持ちってどんなだろう?」などと蝉に思いを馳せながら公園の横を流れる川沿いを歩いていました。
久しぶりに蝉の鳴き声を聞いて「そんなことがあったな」とその時の情景を思い浮かべつつ懐かしんでいたのですが、そのことを思い出したことで、伝道していくうえで重要なことに気付きました。
私は、自分が知っている話を、有名な話だから、誰もが知っている話だから、と決めつけて、外国人の友人も当然知っているだろうと疑いもせずに話していました。しかし知らない人にしてみたら、なんのことなのか、さっぱり分からない。
神様の話をするにしても、同じなのではないか、と思ったのです。
少し前に友人に伝道を試みて、様々な話をしたのに全く理解してもらえなかった、という経験をしたのですが、その時を振り返ってみると、そもそもその友人は神様の存在さえも知らなかったのに、その神様が自分になにをしてくださって、この世の悪人達になにをしてくださっているのか、といったことを私が話したところで、さっぱり意味が分からなかったのではないか、と今更ながら気が付きました。
まずは神様がどのような存在の方なのかを理解してもらわなければならない。
私にはその説明が不十分だったように思います。
自分が理解していることや知っていて当然だと思っていることを他人に説明する、というのは本当に難しい。
そのためには、自分がどのようにして理解するに至ったかを最初から思い出して、その通りに説明していかなければならない。なぜ当然だと思うようになったかを思い出して、そこから説明しなければならない。
そういった相手の立場になって考える思いやりが必要なのだな、という思いに至りました。
人それぞれ、育った環境も違えば、常識も知識も経験も違います。
外国人の友人は、日本人にとっての常識である蝉の話を全く知らなかった。
私にとっては常識である神様の存在も、友人にとっては全く知らない話なのです。それを踏まえずに神様の話をしても、伝わるはずがありません。まずは神様が存在しているということを理解し、信じてもらえなければ、その先何を言っても無駄なのではないか、と思いました。
ただ単に知っていることを話すのではなく、体験したことを伝えるのではなく、どのように話せば分かってもらえるか、なにを話せば理解してもらえるか、相手のことを考えて話していかなければ、本当に伝えたいことを伝えられない。
となると、その時々の判断で、相手の反応を見つつ、話すべき内容を変えていかなければならないのだから、もっと話が上手くならなければなりません。
そう考えていたら
「人々があなたがたを連れて行って引きわたすとき、何を言おうかと、前もって心配するな。その場合、自分に示されることを語るがよい。語る者はあなたがた自身ではなくて、聖霊である」
マルコによる福音書 13章11節
この聖句を思い出しました。
ただし、聖霊が語ってくださるのだとしたら、聖書と御言葉をしっかりと頭に蓄えておかなければならない。そうでなければ『今はこの聖句が最適だ。あの御言葉だったら相手の心に伝わる』と指示が来てもすぐに対応出来ないからです。
私はまだまだ聖書も御言葉の復習も十分ではないと思っています。ですから、もっともっと聖書を読み込み、御言葉も再度復習しなければ、と改めて肝に銘じました。
そして、いざという時に最適な言葉、聖句、御言葉で話して伝道出来るようになりたいと強く思いました。