夏休みを前にして、ここ数日、息子が朝「学校に行きたくない」と言うようになりました。

理由を聞くと「面倒くさい」「疲れる」といった感じなのですが、毎日仕事を終えて帰宅した時に「学校どうだった?」と聞くと、必ず「楽しかった」という回答が返ってきて、その日あったことを嬉しそうに話すので、本当に、単に朝学校に行くのが面倒くさいだけなのだな、というのがわかります。

確かに、家から学校までは徒歩三十分と少し遠く、ランドセルを背負って、たくさんの荷物も持って行くのですから、そう思うのも当然だと思いつつも、行けば楽しいのだし、たとえ楽しくなかったとしても、家にいるよりも学校へ行くことが彼のためになることは明確なので「行きたくなくても行く」と言って、半ば強引に学校に行かせています。

ただ、すでに登下校は一人で出来るのですが、そのような時は心配なので、私が小学校まで一緒に行くようにしています。幸い職場までの出勤路の途中に小学校があるのでちょうどいい。

そして、途中「やっぱり行きたくない!」と立ち止まり、引き返しそうになる息子の手を引っ張って、なんとか学校まで送り届ける、ということをここ数日繰り返していました。

そんなことを毎朝行っているうちに、これって自身の信仰生活と同じだな、と思うようになりました。

明け方の祈りの時間のために起きる時、寝起きで判断力が鈍っている、というのもあるのだと思いますが、目覚まし時計を消しながら「もう少し寝たい」「起きて支度するのが面倒くさい」という思いが(未だに)よぎります。

それでもなんとか自身を奮い立たせ、起き上がって支度をし、歩き祈り、またはクルマでの祈りに出かけるのですが、いざ行ってしまえば、寝起き直後の怠惰な気持ちなど吹っ飛んでしまいます。そして、様々なことを祈り、悔い改めていくなかで、急に頭の中に物事が思い浮かんできてなにかを悟ることがあったり、悩みや苛立ちを神様に打ち明けてスッキリしたり、信仰することの喜びを感じて涙が溢れたり、といったことを体験し「やっぱりあの時そのまま寝ずに、起きて、明け方の祈りの時間を守ってよかった」と思えるのです。

更に言えば、私が信仰生活を始めた当初から現状とも似ています。

当初、御言葉に出会い、信仰生活を始めよう! と一度は心に決めたのですが、酒を止めなければならない、明け方の時間に起きて祈らなければならない、今まで手にしたこともなかった聖書を読まなければならない、賛美しなければならない……と嫌だと思えること、無理だと思えること、面倒だと思えることが山積みで、本当に自分に出来るのか? という思いばかりが先行していました。

しかし(御言葉にて)半ば強引に腕を引っ張られた形で信仰生活を始めてみると、思いもしなかったような様々な素晴らしい経験をすることが出来ました。

最初は「嫌だな」と思っても、実際にやってみたら、とても良かった、ということが多々あります。ましてや、御言葉に従って信仰生活をする、となれば、愛に満ち溢れ、この世で唯一、絶対的に正しい神様の言うことに従うのですから、悪い方向に行くわけがない。

御言葉に出会った当初、嫌だなぁ、という感情をいだきながらも、多少無理してでも信仰生活を始めて、本当に良かったと心から思っています。

昨日の朝も「学校に行きたくない!」とグズり、無理やり手を引っ張って学校に連れて行った息子ですが、私が会社から帰宅して「学校どうだった?」と聞いてみると、案の定「楽しかった!」という答えが返ってきました。この日はタイムカプセルに入れるための手紙を書いたらしく、それがとても楽しかった、とのことでした。

「もし今日学校に行っていなかったら、タイムカプセルに手紙を入れられなかったかもしれないだろう。学校に行って良かったじゃん」

私がそう言うと「まぁ、そうだけど」と呟くように言っていました。まぁ、それだけで完全に理解して、次から「学校に行かない」と言わなくなるのなら苦労はしないのですが、そう簡単にもいかないと思うので、根気強くやっていかなければ。

そう考えていると、神様も私に対して同じ心境なのだろうな、という思いに至りました。

「信仰生活をしていなかったら、今のような希望に満ちた日々を送れていなかっただろう。信仰生活を始めて良かったじゃん」また「今朝の明け方の祈りをサボったら、このことを悟れなかっただろう。明け方の祈りに行って良かったじゃん」といった感じなのではないかと。

私は親として、学校に行くことで良いことがたくさんあるのを知っているから、息子に、嫌がる学校に無理矢理にでも行かせるのですが、神様も、信仰生活を送ることで良いことがたくさんあるのを知っているから、厳しい言葉をかけてでも、私達に信仰生活を送るよう導いてくださっている。

息子のおかげで、神様の心情が本当の意味で理解できた気がします。

今後も、怠惰な気持ちを振り切った先に多くの幸せがあり、神様は、そのその幸せを私に与えたいと思って私を信仰の道に導いてくださったのだ、と意識しつつ、全力で信仰生活を続けていきたいです。

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