私は、Instagramに投稿し始めたのは最近ですが、ラプトブログの有料記事を読み始め、信仰生活を始めてからは三年以上経っています。
その信仰生活の中で多くを悟ったと思っていました。
しかし、最近になって、私は根本的には何一つ悟っていなかったのではないか、と思うようになりました。
御言葉で言われたことは守ってきました。御言葉を読み聞き、それまで全く馴染みの無かった聖書も読み始め、今も読み続けています。明け方一時からの祈りを守り、ここ一年近くはほぼ毎日山にいって祈っています。賛美は車の中でしています。酒を断ち、炭酸飲料も止め、コンビニ弁当などの添加物モリモリの食べ物は極力避け(ポテトチップスは食べてしまってますが...)週一回の断食も宣布された当初から続けています。テレビは観なくなり、それまで好きだった映画も今ではほとんど観ていません。
ですから、私は信仰者だという意識が常にありました。
しかし最近になって、なにかがおかしいと感じるようになりました。それがなにかはよく分かりませんが、今までとは違うのです。
よく御言葉で「恵み」の話をされます。信仰者は神様からの恵みを受けている、と。
私はその恵みについてよく理解していなかったのだと思います。信仰生活をしていると急に感動して涙が溢れだす瞬間があります。そしてその瞬間はとても温かい気持ちになるので、滅多にないにも関わらず、私はその感動を受けただけで満足していたように思うのです。
そしてたまにある「良い事」を神様からの祝福だと考え、それだけで「神様に愛されている」と思っていた節があります。
確かに、それは神様からの祝福だったのかもしれません。ですが、果たして神様が求めていることを私ができていたのか、恩返しが出来ていたのか、と振り返ってみると、全くできていなかったのではないか、と思うようになりました。そもそも根本的なことができていなかった。
その根本的なこととは
「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である」
このことについて、再三にわたり御言葉では話されていて、私は理解したつもりでいました。しかし理解しただけではなんの意味もありません。
私は結婚していて妻と子供が二人います。果たして、いざ神様の御心をなすために妻も子も捨てよ、と言われたとき、その通りにできるか。そう考えると「そうします」と即答できないのです。
そして神様の御心をなすために、今の仕事をやめ、家族を捨て、現在住んでいる場所も離れ、親、親戚、友人知人、世間の目を気にせず、ただ神様のためだけにすべてを捧げられるか、と考えると、やはり「そうします」と即答できないのです。
そんな状態の中で信仰生活をしていても、いつまでたっても霊的に成長することなどできません。そして、実際、私は霊的に全く成長出来ていなかったのだと思います。
それなのに、たまに起こる奇跡的な出来事に対して「霊的に成長したからだ」などと勘違いをしていたのです。
少し前のインスタで、私は夏に「痒みの裁き」を受けたと書きました。
それは、信仰生活を始めてから三年経つ直前のことでした。ですから、もしかしたら神様はこのことに対して、気付かせようとしてくださっていたのかもしれません。「霊的には全く成長していないけど、大丈夫か?もうすぐ三年経つけど」と。
しかし、私は気付くことができなかった。細かい罪ばかりを探し、一番大切なことに気付けなかったのです。まさに、木を見て森を見ず、です。
今振り返ってみると、一ヶ月以上続いた痒みが治まったのは、ちょうど信仰生活を始めてから三年経った頃だった気がします。
神様は、三年は待ってくださるとおっしゃいました。しかし三年は経過してしまいました。ですから、もう手遅れなのかもしれません。すでに山羊として振り分けられ、今後は救いを受けられないのかもしれない。
それでも幸いにして、このことについて悟ることができました。
今後は、これまでの信仰生活を根本的に見直し、私自身がどこまで変わることができるのか今一度深く考え、たとえ救いが受けられなくなっているとしても、これまでのような「義務的」な義の条件ではなく、心と精神と思いを込めた義の条件をたてていきたい。そして、たとえこの地上で栄光が得られなくても、天に富をつんでいけるように生きていきたいと思います。
そして今後も信仰者として、必ず、今年中に十二弟子がたてられ、イルミナティ、創価学会=サタンが滅び、ラプトさんを中心に、神様の御心が壮大になされますよう、心からお祈りいたします。
また、ラプトさんに感謝すると共に、川田さん、奈々さんの恵み深い動画にも感謝いたします。更に、兄弟姉妹皆様の恵み深い証や素晴らしい写真、動画の投稿にも感謝いたします。
本当にありがとうございます。