
先日、久しぶりにイタリア人の友人とSNSで会話をしました。
その友人は30年来の仲で今でも親交があり、事あるごとに近況報告をしています。
数年前、私はRAPTブログの御言葉によってクリスチャンになり信仰生活を始めたことを、その友人には伝えていました。その友人は、イタリア人、ということもあり、カトリック教徒で小さい頃からキリスト教の教えも学んでいたので、私がクリスチャンになったことに驚きつつも喜んでくれていました。
ただ、信仰生活をしていくうちに、その友人とは信仰において隔たりがあるな、と感じていました。
私が信仰の四本の柱の話をしても、いまいちピンと来ていないようでしたし、聖書を何度も繰り返し読んでいることを伝えても、反応はいまいちでした。おそらく、旧約聖書はおろか、新約聖書さえも、通読していないのではないかと思います。そして、普段の生活においては、それほどキリスト教を意識していないように思えました。
ただ私の信仰生活には興味があるらしく、それについては毎回どうなっているのか聞いてきていました。
今回も信仰生活について聞かれたので、引き続き信仰生活を送っていること、ここ数年でたくさんの事をRAPTブログから学び、今も学び続けていること、明け方に祈りを捧げていること、聖書も一日に一時間は読むようにしていること、そして、天国や地獄についても学んだことを伝えました。
以前、その友人には、RAPTブログのアドレスを伝え、RAPTブログに記されている御言葉を読んで貰おうと試みたことはあったのですが、それは失敗に終わったので、今回は特に強要はせず、ただ「以前と変わらず、信仰生活を続けている」ということだけを伝えました。
すると、今回、その友人が「それだけのことをしているのなら『ダンテ・アリゲリ』の本を読んでみては? 彼はカトリックで、天国や地獄のことを書いているから、あなたにとってとても興味深いと思う」という返答がありました。
私が読書好きだと知ってのことだと思います。
ただ、私は信仰生活を始めて以来、あまり本を読まなくなっていました。それ以前は、常に本を持ち歩いていないと不安になるくらい本が好きで、ほんのちょっとの空き時間にも本(特に小説や陰謀論系の本)を読んでいたのですが、信仰生活を始めてからというもの、少しでも時間があったら、その時間を聖書や御言葉を読む時間に費やしたいと思うようになっていたからです。聖書を読むためにAmazonのKindleを購入していたので、聖書以外にも小説などを何作かダウンロードしてみてはいたのですが、やはり小説を読んでいても「俗的だ」という思いから集中出来ず、結局最終的にはいつも聖書を読むようになっていました。
今回、友人からその『ダンテ・アリゲリ』の本を読んでみては? と言われた時も、内心「そんな時間があったら、聖書を読むよ」と思っていました。
しかし、その後「ダンテの本を読んでみるべきかもしれない」という思いが湧いてきました。
友人の返答の中に「私たちは皆、子供のころに学校でその本について学んでいて、私もそれについてたくさんのことを知っている」とあったからです。
今後、海外の人にRAPTさんの伝えてくださっている御言葉を伝え、伝道していくのであれば、海外のクリスチャンがどのようにキリスト教を学び、どのようにキリスト教を捉えているかを知るべきだ、と思ったのです。
さらに、私は自身のある罪にも気づきました。それは「その友人は、自分の方がキリスト教をよく知っているのだから、信仰をあとから始めた私に、自分の方がいろんな事を知っているぞ、と自慢したいだけなんじゃないか?」とひねくれた考えを持ってしまったことです。純粋に、キリスト教について教えようとしてくれた友人の好意に感謝すべきだったのではないのか、と思いました。それが正しいのか間違っているのかは別として、好意は素直に感謝すべきだと。
いずれにしても、海外の人がどのようにキリスト教を学び、どのように考えているのかを学ぶのはとても興味深く、今後、海外の人々に伝道していく上で、決して悪いことではない、と考え直しました。
まだまだ「聖書を読みたい」という気持ちは途切れていませんし、なかなかまとまって本を読む時間をとるのは難しい、というのもありますが、ダンテを読んで、海外の人の考えを学んでみようと思いました。
もしかしたら、それが突破口となって、その友人をRAPTブログへと誘い、伝道出来るかも、という期待もこめつつ。
今後もたくさんの事を学んで、多くの人を伝道出来る者になれるように、祈り求めていきたいと思います。
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