男性の救い

今後、男性の救いも成されていく。
昨日の御言葉は新たな希望に満ちていました。

最近になって、私は多少霊的に成長したからなのか、実際に会う人の波長を感じるようになっていました。そして感じていたのは「みんな辛そうだな」ということ。相手は明るく振る舞っているのに、なぜか空気が重い、と感じることが多々あるのです。
仕事で人に会う場合、相手も一応仕事向けの顔で接してくれるので、あからさまに不機嫌な人というのはあまりいませんが、それでも「無理をしているのだろうな」というのが分かります。きっと心の奥底に不安や不満など、何かネガティブな感情を抱いていて、それを必死に抑え込んでいるのだろうな、と思うのです。

親しい間柄の友人や知人の中には自分は幸せではない、と言い切ってしまう人もいます。
このところ御言葉でRAPTさんが伝えてくださっていますが、本当に私の周りで結婚していて幸せそうな友人がいません。
離婚した友人も多くいるのですが、結婚生活を続けていたとしても、奥さんとは一切会話をせず食事も一緒にとらずにそれでも同じ屋根の下で毎日を過ごしている、という友人や、奥さんにちょっと触れただけで「キモイ」と言われてしまう友人、大きな家に住んでいるのに1階と3階で家庭内別居をしている知人など、とにかく幸せなエピソードを聞く機会が全くないのです。

その中の一人に「奥さんは敵じゃないでしょ」と言ったことがあったのですが、それを聞いた相手は、「はっ!」とした顔をしたものの、すぐに「いや、でも甘やかしたらつけ上がるからな」と言って、やるべきことをやらない奥さんへの愚痴を話していました。

そのような人たちを救ってあげられたら。

私は常々そう思っていました。

しかし実際には、話は聞いてあげられるものの真の救いへと導くことは出来ていませんでした。

なぜ出来ないのか。

その答えは少し前から分かっていました。
私には「愛」が足りなかったのです。そして自身の愛のなさに落ち込んでいました。

信仰生活を始めてからは正しい愛について学び、それなりに理解してきたつもりでいたのですが、真の意味で愛について悟ることが出来ていなかったように思います。「これをすればよい。あれをすべきだ」と思って実践してみても、なんとなくぼんやりしていて、果たしてこれが愛なのか? と疑問に思いながら行っていました。

そして、人々を救いたい、と願っていても、結局突き詰めていけば、それは神様への愛ではなく、自分自身が得をしたいだけだからなのではないか、という思いに駆られ、自己嫌悪に陥り、それではダメだ、と悔い改める、ということの繰り返しをしていました。

自身がこのような状態なのに、他人に愛について伝えることなど出来るはずもなく、結果的に友人知人の誰一人として伝道することが出来ていない。

その現状がさらなる焦りを呼び、愛についてしっかりと悟らなければ、という、いわば強迫観念のようなものにとらわれてしまっていました。

更に、兄弟姉妹が素晴らしい愛の証をしてくださっている中、自分は愛のないことばかりを繰り返している、と思うようにもなっていました。

そして、すでに愛については御言葉で十分話してくださっていたのだから、悟れないのは自身の努力が足りず、信仰がずれているからで、信仰の弱い自分が悪いのだと考え、また、以前の異性の罪をしっかりと悔い改められてないからかもしれない、まだ俗的な心が残っているからだろう、などと自身の至らないことばかりに目が行ってしまっていました。

それでも、いつかは愛について悟ることが出来るのだろう、という淡い期待を抱きつつ、御言葉にすがりつき、同じように奮闘しているであろう兄弟姉妹を思い、その兄弟姉妹の証を読んで力を貰いつつ、信仰生活を続けていました。

そんな状態で聞いた先日の御言葉。

女性の基準者が立てられ、聖霊様の御言葉が伝えられるようになれば、男の私でも愛について悟れるようになる。

本当に希望的な御言葉でした。

早く聖霊様の御言葉を聞きたい。早く本当の愛がどのようなものなのかを悟れるようになりたい。

今朝の明け方は、そのような逸る気持ちを抑えつつ、然るべき時に然るべき人が選ばれますように、と祈りました。

ただ、男にも分かるように愛を伝えてくださる日が来るから大丈夫だ、といって、気を抜いてはいけないな、とも思いました。

引き続き努力を怠らず、自分でも真の愛がなにかを追求し、悟れるよう祈り求めていかなければ、真の意味で悟ることなど出来ない。

常に希望を与えてくださる御言葉に感謝しつつ、愛とは何かを悟り、自分自身が真の意味で救われ、その上で多くの人を伝道できるように成長していきたいです。

#RAPTブログ #御言葉 #愛 #救い

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