カフェと聖書

私は、少し前に決めたとおり、仕事が早く終わった日にはカフェに行って聖書を読むことを続けています。毎日は無理だとしても、出来る限り寄るようにしています。

早く家に帰れば息子や娘が喜びます。娘は飛び跳ねて駆け寄ってきますし、息子もその日の出来事を嬉しそうに話してくれます。ですから、早く帰りたいという気持ちもある。

それでも帰宅前の一時間、カフェに寄って聖書を読む、ということを続けているのは、多少無理にでも聖書を読む時間を作らないと、御言葉を実行できないからです。

そして、そうしていないと、普段の生活に流されてしまう、俗的になってしまう、という焦りもありました。ただでさえ毎日仕事をして俗的な環境にどっぷり浸かってしまっているのに、そのまま家に帰ってしまったらダメだ、という思いがあったのです。

そのような日々を送っているのですが、最近になって「もっともっと聖書を読みたい」という気持ちが自然と湧いてきているのに気づきました。そして、いつしかこのカフェに行く一時間が楽しみになっていました。

少し前までは、やはり「言われたからやらなければ」という気持ちが強く、どちらかというと無理をしていました。

しかしそれは肉的考えで、今「もっと聖書を読みたい」と思うのは、霊的な考え、叫びなんだと気付きました。

私の霊が喜んでいる。
それを感じることが出来るようになったのではないかと思ったのです。

これは私にとってみたらすごいことです。
これまで、本当に私は霊的に鈍感でした。
もちろん、長い信仰生活の中で突如感動で涙が溢れたり、急になにか構想がわいたり、ということは多々あり、霊を感じることはありましたが、なんとなく漠然としていていました。
どちらかというと、霊の存在は、知識として知っているという感覚が強く、無理やりその知識を自身に信じ込ませていた感じさえありました。

そんな私が「自分の霊が聖書を読むことで喜んでいる」と感じるようにまでなれたのです。

そして、そして、なぜか、これを書いている時点で、涙が溢れてきています。

もっと自分の霊のためにしてあげなければ。

私はこれまでの人生で、御言葉に出会うまでは肉的喜びばかりを追い求めてきました。しかしその大半は罪につながる行為で、霊は苦しんでいたのです。そして、おそらく、その度重なる罪のせいで、私の霊は醜く変形していたのだと思います。

しかし、ラプトブログによって神様の存在を知り、自身の霊の存在を知り、罪を悔い改めることで霊を癒やすことが出来ると学びました。

今回、霊の喜びを感じたことで、今後より一層、肉的喜びよりも霊的喜びを優先に生きていきたい、と思うようになりました。そのためにも更に信仰を深めていきたい。

そんな、これまでとは違った幸せな気分を味わった夕暮れ時でした。

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