私は今までの信仰生活の中で、幾度となく信仰から離れようと思ったことがあります。
そのたびに、それまで神様が自分にしてくださったことを思い出し、踏みとどまってきたのですが、踏みとどまった理由はそれだけではありませんでした。
以前の御言葉で、神様の御言葉に出会い、一度信仰生活をした人が信仰を離れると、神様から裁かれる、というのが頭に残っていて、それが怖いという強迫観念にも似た感情から、信仰生活を止められなかった、というのがありました。
聖書にもありました。
ペテロの手紙2−20
わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような者たちの後の状態は、前よりずっと悪くなります。義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる掟から離れ去るよりは、義の道を知らなかった方が、彼らのためによかったであろうに。
神様を信じているからこそ、その裁きが怖い。
そして神様の裁きが怖いから仕方なく続ける、というネガティブな理由で信仰生活に踏みとどまっていたのです。
その後、信仰生活をやめることで何を失うのかを冷静に考え、やはり信仰から離れたくない、という思いが強くなり、そのまま離れずに信仰生活を続けよう、という結論に至るのですが、もしサタンから与えられた偽りの喜びが、その神様の裁きに対する恐怖に勝ってしまったら、と考えると、この考え方では危ういな、と思うようにもなっていました。
私は元々怠惰な生活をしていました。悔い改められていない罪もたくさんあると思います。ですから、常に気を引き締めていないと、サタンにやられてしまう可能性がある。
今現在は信仰から離れようなどという気は全く起きませんが、今後、いつサタンから攻撃されて「信仰を離れようか」という思いが過ぎるか分かりません。
そんな時、今までのように単に「裁きが怖い」という理由だけでは、太刀打ち出来ないかもしれない。
でも、神様がしてくださったことを常日頃から感謝して喜びに満ちた感覚でいれば、そして「聖書を読む」ということを怠らず、御言葉も復習して頭に蓄えておけば、突如そんな攻撃を仕掛けられても耐えられるのではないか、と思いました。
日々の生活を送っていく上で忘れがちになってしまっている「これまで神様がしてくださったこと」を思い返し、感謝して、その時の喜びの感覚を常に思い出し、また聖書を読み込み「信仰を離れる」などというサタンの誘惑を軽々と振り払っていけるようになりたいと思っています。