今日、会社で草刈りをしました。
ずっと以前からやらなければ、と思っていたのですが、どうしても優先順位が低く、いつも後回しにしていました。
今日になってやっとまとまった時間が出来てやったのですが、しばらく放置していたせいか、雑草が思った以上に育ってしまっていて、すべてを刈り、根っこを抜いていくのが本当に大変でした。
それでも、作業中、出来るだけ神様に意識を向け、根っこを掘りつつ「私の罪のように根深いな。しつこいな」などと考えていたのですが、ふと少し前、庭師の方と話した会話を思い出しました。
その方は以前お客様に「庭の雑草をすべてなくして欲しい」と依頼されたため、ユンボですべて掘り起こし、取り去ろうとしたそうです。しかし掘っても掘っても根っこが出てきて、結局すべてを取りつくすことが出来ず「出来る限りは除去しましたが、全部は無理でした」と伝えたそうです。
「やはりすべて除去するのは無理なのですね」と私が言うと「そうではない」とのこと。
一度にすべてを除去するのは無理で、後から後から生えてくるのだけれど、放置せずに根気強く抜いていけば、時間はかかるがいずれなくなる、と言っていました。
その話を思い出し、信仰生活と一緒だな、と思いました。
信仰生活を始めた時、ユンボでゴッソリ罪を悔い改めて取り除いたつもりでも、細かい罪が残っていて、後から生えてくる。
そして放置していればその罪はどんどん大きくなっていくけれど、明け方の祈りの際にその細かい罪を見付け、根気強く手で引き抜いていけば、いずれは罪が無くなっていくのだと。
「果たして、それが出来ているのか?」
今日の草むしりの最中に問われたような気がしました。
細かい罪を見付け出し、悔い改められているか。大きな罪を一度悔い改めたからといって、それで良しとしていないか。ユンボのあと、小さな残りの「罪」を日々探し出して丁寧に排除しようとしているのか。
そう自分に問いただしてみると「一度悔い改めた罪は、もう大丈夫」と考えていた部分があったような気がしてきました。
もしくは、大丈夫ではないと分かっていても、再度意識して悔い改めようとはしていなかった気がします。
一度や二度悔い改めただけでは、許してもらえないであろう罪もあるというのに。
更に大きい罪を悔い改められたとしても、細かい罪は残ったままです。そして、それを放置していたら、それも大きくなってしまう。
雑草は大きくなってしまうと根っこも太く強くなり、深く広く根付いてしまうので、根こそぎ抜くのが大変になってしまいます。それを今日会社で体感しました。
今後は、会社の雑草のように長い間自身の罪の放置するようなことはせず、罪を出来る限り刈り取って根絶やしにし、更にユンボでは取り去れなかった細かい罪に気付けるよう神様に祈り求め、コツコツと根気強く悔い改めていきたいと思いました。