信仰のズレ

私の小学校の同級生に某有名バンドのギタリストがいます。

今でこそ、あまり名前を聞きませんが、一時期は一世を風靡し(言い回しが古いデスネ)多くの人が知っているヒット曲を何曲も持っているバンドです。

とはいえ、私はその彼を直接知っているわけではなく、そのギタリストは同級生だったんだよ、と他の友人から教えられただけで、その彼の顔はおろか、名前すら覚えていませんでした。

数年前、小中高と仲がよかった友人と久しぶりに会う機会がありました。
その友人とは、大人になってからはたまに連絡をとる程度でほとんど会ったことがなく、その時も、共通の友人宅に私が遊びに行っていたときに、たまたま彼も来た、といった感じでしたが、それでも数年ぶりとはいえ、別に気まずい感じはなく、いろんな話をしました。

その時に、その某有名バンドのギタリストの話も出たのです。その彼は、最近そのギタリストと連絡を取り合っているらしく、自慢気にその話をしていました。

最近になって、そのことを思い出していました。

伝道に関する御言葉が宣布され、もし私が伝道するために個性才能を伸ばすのなら、そのギタリストの彼のように、私の友人知人が、私のいないところで、私と知り合いだとか、連絡を取り合っているだとか話題に出してくれて、自慢してもらえるくらいにならなければいけないな、と思っていたのです。そこから伝道につながるのではと。

そんな矢先に昨日の御言葉。

「主の前で価値のある人だと認めれもらえる人になりなさい」

私の卑しい部分を見透かされていたような御言葉でした。

私は「神様のために」と言いつつ、いつしか自分の栄光のため、人に凄いと思われたいがために、個性才能を伸ばそうとしていたことに気付きました。

完全にズレていたのです。

某有名バンドのギタリストに対して無関心を装いながらも、どこかで羨ましいと思っていたのかもしれません。(親しいアピールをしていた友人を羨ましいとは思いませんでしたが…)そして、御言葉に聞き従っていけば、そうなれるのではないかと。

目指すべきゴールがいつの間にか変わっていて、違う道を走っていました。

もしこのままこの道を走り続けていたら、ゴールで待っているのは神様ではなく、単に有名人だということだけで群がってくる人たちだったでしょう。そしてそのような人たちは、私と知り合いだということを自慢したいだけだから、私は少しの間悦に浸れるでしょうが、それも長くは続かず、いずれ虚しい気持ちになっていたのではないかと思います。
いや、そもそもゴールにさえたどり着けず、有名になるどころか、才能など全く磨けないまま道に迷い、道端でのたれ死んでいたかも。

これまでの信仰生活で、多くのことを学び、多くのことを悟り、多くのことを悔い改めてきたつもりでいたのに、まだまだ学ぶべきこと、悟るべきこと、悔い改めるべきことがたくさんあると改めて感じました。

やはり慢心せずに、日々間違った道を走っていないか、間違ったゴールを目指していないかを確認しながら、間違いに気付いたらすぐに認めて悔い改め、軌道修正して、神様が待っているゴールへ向かって突き進んでいきたいです。

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