昨日もカフェに行って、聖書を読んでいました。
普段より仕事の終わりが遅かったのでどうしようか迷ったのですが、この日は特に仕事が忙しくて頭がぼんやりしていたので、このまま帰ってはいけない、と思い、時間的に無理があったのにも関わらず、寄っていきました。
それにしても、本当に聖書が頭に入るようになっています。
私は以前から本を読むのが好きで、たくさんの本を読んできました。誰よりも本を読んだ、と言えるレベルではありませんが、それでも一般の人たちよりは多く読んできたと思います。
常に本を持ち歩いていて、ほんの少しでも時間があると本を開くという習慣がありました。歩きながら単行本を読んでいて、すれ違ったおじさんに「二宮金次郎かっ」と突っ込まれたこともあります。(歩きスマホどころか、携帯電話もあまり普及していない頃です)
とはいえ、ラプトさんのように文学を読んでいたわけではなく、小説に関して言えば大半がサスペンスやホラー、そして時代小説といった娯楽小説でした。そして末期(ラプトブログに出会う直前)は刺激を求めて、本当にヒドイ(グロい)話の小説を読んだりもしていました。
小説を読む時は、必ず主人公に感情移入します。そうやって「非現実的」な世界に没頭し、ある意味現実逃避をして楽しんでいたのですが、今考えると、なぜわざわざ嫌な気持ちになるような小説を読んでいたのか理解に苦しみます。知らず識らずのうちにサタンの世界に引き込まれていたのかもしれません。
ラプトブログに出会い、有料記事を読むようになってから、初めて聖書を手に取りました。それまで聖書とは全くの無縁だったので、当初はどのような内容なのかさえもよく知りませんでしたが、読書は好きだし読めるだろう、と思って読み始めたのでした。
しかし、いざ読んでみると、他の小説とは全く違って、内容が頭に入ってこない。いつの間にか字を追っているだけになっていて、読んだはずのところを戻って読み返す、といったことが多々起きました。
このようなことは小説を読んでいたときにはありませんでした。どんなに退屈な話だったとしても、内容は把握できていましたし、一応主人公に感情移入も出来ていた。それなのに、聖書ではそれが全く出来ない。
当然のことながら、読むスピードも遅く、通読一回目は本当に時間がかかりました。そしてその「通読」も、そう言えるのか怪しいレベルで、二回目、三回目と回数を重ねていっても、毎回「あれ? こんな内容読んだかな?」と思うことが幾度となくありました。
サタン的思考の人には、単に読むことさえも困難に書かれているのだと思います。そして私はサタン的思考にどっぷり浸かっていたので、スラスラ読めなかったのだと。
それでも聖書を読まなければ信仰生活をしているとは言えない。とにかく、たとえわけが分からなくても読み続けなければ、と自身に言い聞かせながら、聖書を読み進めていました。
無理やり読んでいた、といってもいいかもしれません。
そうしているうちに、今度はなぜか他の小説を読んでも、あまり集中ができず、感情移入もできず、内容が入ってこなくなりました。
結果、その小説を読むのを止め、それでもなにかを読んでいたいから、聖書を読む。そのような日々を過ごしていました。
時間が経つにつれ、日々宣布される御言葉が蓄積されてきたからか、徐々に理解できる箇所が増えてきました。しかし、理解はできてきても、相変わらず内容が頭に入ってきませんでした。
それが、最近、聖書の内容が頭に入るようになってきたのです。
おそらく、それは聖書に感情移入が出来るようになってきたからなのだと、昨日カフェで聖書を読んでいるときに思いました。
聖書の預言者達や登場人物、イエス様、使徒たちに感情移入ができるようになったから、内容が頭に入ってくるようになったのだと。そして、少しずつではありますが、神様の心情が理解できてきているのではないかと思ったのです。
以前、ラプトさんが御言葉で「小説を読むように聖書を読んでいた」とおっしゃっていました。私はどうだろう? と考えた時、私はそのように読むことができていない、と思いました。
しかし今になって、ようやくその意味が理解でき、小説を読むように聖書が読めるようになりました。
内容が理解出来れば、そして登場人物に感情移入ができれば、これほど意味深く、面白い本はありません。更に、時間だけが喰われ、なんの益にもならない、むしろ自身にとって害になるような俗的な娯楽小説とは正反対で、読めば読むほど自分の益になり、自身を成長させることも出来る。なにより、自身の霊が喜びに満ち溢れているのを感じることができて、それによって肉的にも喜びの感覚を味わえる。
聖書とはこれほどまでに素晴らしい書物なんだ、と今更ながら感じています。
もっともっと聖書を読んで、更に理解を深め、更に多くを悟り、更に自身を成長させて、多くの人を伝道できる人間になりたい。そして、より多くの人に聖書の真の意味での素晴らしさを知ってもらいたい、実感してもらいたい。
聖書を読む喜びを知った今、そのような思いに満ちあふれています。