私は信仰生活を始めてから、幾度となく裁かれたと思える経験をしてきました。その中でも特に大きく裁かれたと思える経験を二度しています。どちらも大きな罪を犯したという意識はなかったのですが、その経験によって、自身の信仰が大きくズレていたことに気付かされました。
今振り返ると、生ぬるい信仰生活を送っていたのだと痛感します。
特に二度目に裁かれた頃は、すでに信仰生活を始めてから数年が経っていたのにも関わらず、明け方の祈りの時間に寝てしまってばかりでした。それを治したいという思いは常に抱いていて、様々なことを試してみたのですがうまく行かず、ただ祈れない日々が続いていた状態だったのです。
そのような自覚があったので、裁かれたと思った時は、それも当然かもしれない、という気持ちがあったのですが、そのショックは自身が思っていたものよりも大きく、本当に自分はダメな人間だ、神様に本当に申し訳ない、多分神様にヤギとして振り分けられてしまったのだ、という考えに陥り、これ以上信仰生活は続けられないかもしれない、という考えにまで至っていました。
そのような失意の中、翌朝会社に行くと、更に追い打ちをかけるような酷い出来事に遭遇しました。この内容は、事細かく書いてしまうと読んでいただいている方に不快な思いをさせてしまうので、あえて書きませんが、とにかくただでさえ気持ちが沈んでいるのに、なぜこんな経験までしなければならないのか、という思いでした。
しかし、その直後、もし今信仰生活をやめてしまったら、死後の永遠とも思えるような長い時間、常にこのような不快な経験をしながら生活していかなければならない、という思いに駆られ、信仰を捨ててはいけない、今この時こそ踏ん張らなければならない、と考え直し、それまでの生ぬるい信仰生活から抜け出さなければ、もっともっと熱く信仰生活をしていかなければ、と悔い改めたのでした。
その数カ月後、歩き祈りという知恵を御言葉によって得たため、自身の信仰生活(特に明け方の時間)は大幅に改善できたのですが、あの時、なぜあのような不快な出来事があのタイミングで起こったのか? と考えるようになりました。
もしかしたら、あれも神様がそう仕向けてくださったのかもしれない。
実際、あの時以外、先にも後にも同じような経験をしたことがなく、本当にピンポイントでの出来事は、何らかの意味があるとしか考えられなかったのです。
私はあの当時、すでに御言葉から「死後の世界も存在していて、生きているうちにどれだけ義の条件をたてたかによって、その世界での生が決まる」ということを悟っていました。そして、神様を信じず、罪を知らず、罪を犯したまま悔い改めずに死んでいったら、死後の生は悲惨なものになるだろう、という意識もありました。ましてや、神様を知り、救われて、信仰生活を送っていたのにも関わらず、それを捨ててしまったのなら、状況は悪くなるという思いもありました。
----
ペテロの第二の手紙 2
20彼らが、主また救主なるイエス・キリストを知ることにより、この世の汚れからのがれた後、またそれに巻き込まれて征服されるならば、彼らの後の状態は初めよりも、もっと悪くなる。 21義の道を心得ていながら、自分に授けられた聖なる戒めにそむくよりは、むしろ義の道を知らなかった方がよい。
----
しかし、それさえも「どうでもいい」と思えるほど落ち込んでいて、本当に信仰を捨てかねなかねませんでした。その考えを早い段階で取り去って悔い改められたのは、やはりあの不快な出来事があったからです。あんな思いを死後ずっとしなければならないかもしれないなんて、絶対に耐えられない。今、信仰をやめてしまったら、絶対に後悔するだろう。そして死後に後悔してもすでに手遅れで、どうすることもできない。そう思えたからこそ、踏みとどまって、信仰生活を続けられたのだと思います。
もしかしたら神様は、死後の世界について悟っている私なら、あのような不快な経験をさせれば、そのような結論に至るかもしれない、という予測をしてくださって、あえてそう仕向けてくださったのかもしれない、と思ったのです。
そして、今振り返ってみると、あれは試験だったのかもしれないな? とも思います。
裁いたあとにあのような不快な経験をさせて、それでもし信仰をやめてしまうのであれば、それまでだということだったのかも。
いずれにしても、その出来事以降、信仰を離れようと思ったことはありませんし、信仰が弱くなっていると感じる度に、その経験を思い出しては悔い改めて、熱く信仰を持たなければ、と悔い改めて自身を奮い立たせる、という日々を送っています。
更には、あのタイミングで経験が出来て良かった、とプラスにさえ考えています。
まだまだズレてるところがあるかもしれません。気付けずに悔い改められていない罪もたくさんあるのだと思います。怠惰な気持ちになったり、信仰心が弱くなり生ぬるくなってしまうことも今後あるでしょう。
そして、それらに対して裁かれることがあるかもしれません。
それでも、それは私のためにしてくださっているのだと信じて感謝し、その都度悔い改め、諦めずに今後も信仰生活を送っていきたいと思います。
#RAPTブログ #裁き