嫉妬心

昨日、嫉妬心について書いた後、ふと信仰生活を始める以前の自身の愚かな考え方に気づきました。

私は若い頃、海外で数年過ごしていました。そしてそこで様々な人と知り合いました。国、人種、宗教、生活習慣、言語など多種多様で、とても刺激的な日々を送っていたのですが、その中でも、とても恵まれているな、羨ましい、と思う人が幾人もいました。

まだ私は若く、知り合う人たちも同年代で若かったため、正確には彼ら、というより、彼らの親がすごく、郊外のプール付きの豪邸に住んでいたり、古くから続く名の通った貴族の出だったり、親がリゾート地のホテル経営をしていてゆくゆくは継ぐ、という人もいました。

私は、そんな彼らを羨み、時には「ずるい、人生は不公平だ」とさえ思ったこともあります。

ラプトブログに出会い、信仰生活を始め、御言葉に聞き従っていくうちに、そんな金持ちや貴族などが羨ましいという感覚は全くなくなり、彼らに嫉妬心を抱くこともなかったのですが、今振り返ってみると、私は本当に目に見える外見やほんの少しの彼らの情報だけでその人を見て、そんな生活をしているのなら幸せだ、そんな境遇にいるのなら何の悩みもなく、毎日楽しく暮らしているのだろう、と勝手に決めつけ、羨み、嫉妬していたのだな、と思いました。

御言葉にて、ラプトさんは幾度となく「人々は幸せそうに見えても、心の中は地獄だ」ということを伝えてくださっていました。幸せそうに繕っているだけだ、と。

以前の私は人の心の奥底まで見ようとせず、それらを想像する力が乏しく、金持ち=幸せに違いない、いつも笑っている=幸せ、楽しそうに生きている=問題ない、と短絡的に考えていたのです。

そこに相手を思いやる愛は全く無かった。そして彼らの苦悩も知らずに、単純に羨ましい、などと思っていた。

本当に愚かでした。

では、今はどうだろう? 人の心の奥底まで見てあげようとしているだろうか? この人は楽しそうに日々を過ごしているから大丈夫、と勝手に自分が見えるところだけを見て判断していないだろうか?

そう考えると、人を見るとき、肩書や地位に目をとられ、その人が心の奥底で何を思っているのか、救いを求めているのではないか、という考えにまで至っていないな、と気付きました。その点については、以前と大して変わっていない。

神様は、人に関心を持たないようにするために私から「嫉妬心」を取り払ってくださったのではない。

人を見る時に、嫉妬心という感情に邪魔されないように、取り払ってくださったのだ。

ふと、そういう思いがよぎりました。

金持ちになっても幸せになれない。
それを知ったのにも関わらず、身近の金持ちの人は「幸せそうだなぁ」などと考えることがありました。

そこに嫉妬心はなくても、幸せではないかもしれない、救ってあげよう、という気にはなっていなかった。

彼はお金持ちだから大丈夫でしょ、と無意識のうちに決めつけていたのかもしれません。

隣人を心から愛し、救うためには、薄っぺらい私自身の主観に従うのではなく、神様に導いていただきながら、神様の愛で人を救う行いをしなければならない。

誰が幸せか、誰が不幸か、勝手に自分で判断せず、神様に意識を向けながら、真に救いを求めている人を見つけ出し、救う働きをしていきたいと思います。

おすすめの記事