先日の御言葉に「ちぎれる関係・ちぎれない関係」というお話がありました。
それを聞いて、信仰生活以前の私の人間関係はずいぶんちぎれたな、と思いました。
その大半は、中学の頃からの地元の友人達、そして飲み友達です。
中学の頃からの地元の友人というのは、ただ若い頃の一時を、その時に気が合ったから、という理由だけで付き合い始め、大人になってもなんとなく一緒につるんでいるだけで、会った時に話す内容は昔話ばかり。それでも当時は一緒にいてくれる友人というのはありがたいな、などと思っていました。
飲み友達にしても、話の大半が酔っ払った時にやらかしたエピソードや共通の知り合いの噂話。しかし、友人と飲んでくだらない話をすることで「ストレス発散になる」と信じて、自身の生活には必要不可欠だと思っていました。
それが、RAPTブログに出会い、御言葉を読み始めてから、それらのことが間違っていたと少しずつ理解できるようになりました。
もっとも、飲みに行くことが絶対的に正しくはない、というのはそれまでも心の何処かで感じていたのだと思います。ただ、それを真っ向から「間違っている」と示してくれる人も、またそれらを事を気づかせてくれるような本に出会う事もありませんでした。むしろ「友達は大事」「ストレス発散は必要」といった、自分に都合がよく、単に心地良い状態が保てるような耳障りのいい話ばかりが目に付き、どこかで不満を抱えつつもそれをかき消して、友人との関係を保ちつつ、酒に酔うという一時の快楽に溺れていたのだと思います。そして、それが自分の人生において得ることが出来るささやかな幸せだと考えていたのです。
それが、RAPTブログの有料記事に記されている御言葉によって覆されました。
信仰生活を始めるにあたって、一番の大きな壁は「酒をやめること」でした。私は家でお酒を飲むことは滅多にありませんでしたが、飲みに出るのは好きで、友人知人と酔っ払って騒いでる時間は自分にとってかけがえのないものだと思っていました。
それをやめなければならない。
本当にそんなことが出来るのだろうか?
酒をやめてしまったら、それまで一緒に飲んでいた友達とも疎遠になってしまう。地元の友人と会うときも必ず飲んでいたから、飲む機会がなくなれば、自然と会わなくなってしまうだろう。友人知人を失いかねない。
そのような思いがよぎり、やっぱり無理かもしれない、いや、酒をやめなくても信仰生活は出来るかも? 有料記事さえ読んでいれば従っていることにならないか? など自分なりに、様々な道を模索しました。
しかし、酒をやめる以外に道はなかった。そして御言葉に記されているすべてに従順にならなければ、信仰生活をしているとは言えず、真の幸せは得られない。酒をやめ、それまで培ってきた友人関係を断ち切ってでも、信仰生活を始める価値がある、信仰生活をすることで、より良い人生を送ることが出来る。
そのように思えるようになり、信仰生活に至ったのです。
それ以来、一滴も酒を飲んでいません。そして飲みに行かなくなったことで、案の定、地元の古い友人や飲み友達とは疎遠になりました。
しかし、そのことを後悔するどころか、逆にそのような無駄な時間を過ごさなくなって良かった、以前よりずっと有益な時間を過ごすことができている、と思っています。
更に言えば、もしRAPTブログに出会っておらず、飲みに行く事をやめてもいなかったら、このコロナ茶番において、なかなか飲みに行けない、という状況に耐えられなかったかもしれません。飲みに行く事が習慣化していて、それをストレス発散だと思っていたことで、ストレスが溜まってしまっていたかもしれない。
他にも、友人と自由に飲みに出たいし、色々と周りに言われるのも嫌だし面倒だ、などという安易な考えからワクチンを打ってしまっていたかもしれない。逆にワクチンは毒だという情報だけを得て頭でっかちになり、そのせいで友人から敬遠されて飲みに行けず、疎外感に苛まれていたかもしれません。
いずれにしても、考えれば考えるほど、自分はRAPTブログに救われたのだという思いが強くなります。
そして、今、振り返っても「信仰生活を始めた」というのは私の人生において最良の決断だったと思っています。
信仰生活で友人との関係はちぎれてしまいましたが、それ以上のものを得ることができました。友人関係とは比べ物にならないくらい大きなものです。
これは強がりではなく、本心からそう思っています。
ただ、いつかその友人たちにも伝道したい、という思いも残っています。せっかくRAPTさんと同じ時代に生きていて、リアルタイムで神様の御言葉を聞けるのに、それを知らず、真の幸せが何かを分からずに生きていくなんて、本当にもったいない。
酒好きの彼らを伝道するのは難しいかもしれませんが、一人でも救うことができたら、と思いつつ、今後も祈り求めていきたいと思います。
同時に、友人と疎遠になってしまうかもしれない、そして「お酒を飲みたい」がために、信仰生活を始めることを躊躇してしまっている人が、その思いを断ち切って、友人や酒ではなく、神様を選んで信仰生活を始め、救われますよう祈り求めていきます。