今朝の明け方の祈りの時間に、以前、同じ明け方の祈りの時間に思い浮かんだ言葉を思い出しました。
それは「義の道を歩んでいくのだから、胸を張って行きなさい」という言葉。
去年の12月、まだ歩き祈りを始めたばかりの頃で、寒くて縮こまり、背中を丸めて下を向きながら歩いて祈っていました。そして、そのようにしていたら、自転車とぶつかりそうになったため、それでは危ないと思い、しっかりと前を向いて歩こうと両肩をぐっと後ろに引き、背筋を伸ばして歩くようにしたら、そのような言葉が思い浮かんだのです。
その時の事はインスタに投稿して、それ以後、しばらくはそうするよう心がけていたのですが、いつしか忘れてしまっていました。そして、ここ最近、明け方の時間に急激に寒くなってきたこともあり、歩き祈りに出た際に体が縮こまり気味になってしまっていたことに気付き、その言葉を思い出したのです。
改めて両肩をぐっと後ろに引いて背筋を伸ばし、胸を張って歩いていくと、体全体に力が行き渡るような感覚を得て、それまでのくすぶっていたモヤモヤした気持ちもスッと晴れていき、目の前が明るくなったように感じました。
この所「自分は爆発的な恵みに満たされていない」という思いから、なんとなく気持ちが沈みがちで、悪い方向にばかり物事を考えてしまっていました。自身の信仰がズレている、ただ、なにがズレているのか分からない。そして、このままズレていってしまったら、どんどん神様から遠ざかってしまう、という不安に苛まれ、そのような思いによって、更にズレてしまう、という悪循環に陥っていました。
それでも「明け方の時間に起きて祈る」という良い習慣が身に付いていたおかげで、明け方の祈りは守ることが出来ていました。
そして、今朝の明け方、以前に思ったことを再び思い出し、その頃の気持ちを取り戻したのです。
同時に、これまでの信仰生活で御言葉から本当に多くのことを学び、悟り、悔い改め、それまでの自身の古い考え方を一新してきたのにも関わらず、時が経つとともにそれらのことを忘れてしまい、悔い改める以前の自分に戻ってしまっていることが多々あるのではないかと思いました。
それらが自身の信仰のズレにつながっているのかもしれない。
その時その時に「悟れた」「悔い改められた」と思い、その一時だけ喜んだものの、安心して慢心してしまっていたのだと思います。そしていつしか悟ったこと、悔い改めたことを忘れてしまっていました。
実際、胸を張って歩くと良い、と思ったことがあったのにも関わらず、今日、それを思い出すまで、そのことを忘れていました。そして、久しぶりに以前のように背筋を伸ばして歩いていたのですが、意識をしていないとすぐに元の背中を丸めて下を向いて歩く状態に戻ってしまう。それは、その姿勢のほうが楽だからです。背筋を伸ばすのに慣れていなかったため、ずっと背中の筋肉に力を入れていなければならず、気を抜くとすぐに元の状態に戻ってしまっている。
それと同じで、悟り、悔い改めたことは、その後もずっと意識していかなければ、いずれもとに戻ってしまうのだ、と痛感しました。いつの間にか悔い改める前の楽な方へ戻ってしまっていたのです。
今朝は月が細く、月明かりがほとんどなかったため、街灯のない河川敷は真っ暗でしたが、胸を張って歩いていると、辺りが明るく感じました。そして見上げると満天の星空。ここでは滅多に見ることのない流れ星も今朝は見ることが出来ました。
その後は時折立ち止まり、美しい景色を見せてくださっている神様に感謝しつつ、深く祈りながら歩き続けました。
少し姿勢を変え、視線を変えるだけで、これだけ見えている景色が変わるのだと思うと、逆に少しズレただけでもまったく違う景色が見えてしまうのだということに気づき、信仰のズレも同じなのだな、と改めて思いました。
今一度、自身がこれまで悟ったと思っていること、悔い改めたと思っていることを洗い出し、それらがそれ以前に戻ってしまっていないかを確認し、ズレているところを見つけ出したいと思います。そしてそれを見付けたら常に意識して正すようにしなければならない。
いつか爆発的な恵みに満たされるようになるためにも、日々ズレを修正し、正しい道を歩んでいきたいです。