明け方、家では祈れない

今朝の明け方の祈りの時間、なぜか急に「わざわざ外に出なくても家でこのまま祈れる」と思って、家でそのまま祈りました。

私は信仰生活を始め、明け方の祈りの時間に祈るようになってから、常に眠気と戦ってきました。

当初は祈る前にシャワーを浴びたりコーヒーを飲んだり冷たい水を飲んだり飴を舐めたり、と様々なことを試していましたが、結局いい方法が見つからず、眠気に負ける日々を送っていました。
そうしているうちに、眠気に打ち勝つには、やはり外に出るべきだという思いにかられ、それからは車で外に出て祈れる場所を探し、そこに車を停めて祈るようにしました。

以前も書きましたが、私は昼間の仕事をしているので、明け方に時間を作るのが難しい。そこで、当初は早く寝て4時ころに起き、それから7時ころまで祈る、ということをしていました。しかし「やはり1時から祈らなければ」という思いから、21時頃には寝るようにして、0時半に起き、1時から4時半まで祈り、もう一度ベッドに戻って6時半まで寝る、という生活に切り替えました。

最初は毎日続けるのは無理に思えましたが、習慣化するとそれほど大変ではなくなりました。

ずっと以前の御言葉で「良い行いは習慣化しなさい」というのがあり、それ以来、私は常にその身言葉を念頭に置きつつ信仰生活をしているのですが、そのことが習慣化したことで、祈りの時間がしっかりととれるようになり、より充実した信仰生活を送れるようになりました。

ただ、眠気との戦いはずっと続いていました。

車で外に出ても、決めた場所に着いて車内で祈り始めると、いつの間にか寝てしまっている。そしてハッと気づいて、これではだめだ、と車を運転して場所を変える、というのを繰り返していました。

「歩いてでも祈るように」と御言葉で宣布されたのが去年の11月下旬頃だったと思います。そして12月に歩き祈りをはじめました。

それによって、初めて眠気との戦いから解放された気分になりました。

歩いていれば絶対に寝落ちしてしまうことはない。

それからは、雨の日以外は必ず歩くようにしていました。
そして雨の日もそれまで祈っていた場所と違う場所を見つけ(深く祈れる場所を祈り求めたので、導いてくださったのだと思います)その場所で、車内で寝てしまうこともなく、深く祈れるようになりました。

そのような祈りの日々を過ごしていたのですが、ここに来て、今朝、急に「家でも祈れるだろう」という考えが浮かび、外に出ずに家で祈ろうと思ったのです。

外に出て祈ろうと決めてから、出なかったことなど数えるほどしかなく、その時に家で深く祈れたことなどなかったのに、今朝は「これだけ長く信仰生活をしているのだから、もう大丈夫だろう」という考えが浮かび、そのままパソコンデスクの前に座って祈り始めました。

結果は、祈れたのは最初の数十分で、その後、寝てしまい、ハッと目が覚めて、場所をソファに変えて祈り、少し経つとまた寝てしまい、また場所を変える、ということを繰り返し、ほとんど祈れないまま終わってしまいました。

ここ最近、日々成長するように、との御言葉が宣布されているのにも関わらず、怠惰な気持ちに負けて、一日の祈りの時間を無駄にしてしまった。

そして、その一日の祈りの時間を取り戻すのは難しい。明日、その分を取り戻そうとしても、明日には明日の祈りの時間があり、今朝の分の時間は作れない。

自分は家で集中して祈ることは出来ない。

そのことを改めて実感しました。

今朝の経験をふまえ、悔い改め、今後たとえ「今日は目が冴えているから大丈夫」という考えが浮かんだとしても、家ではなく、外に出て祈ろうと思いました。
そして、霊肉ともに成長出来るようにと神様が与えてくださった貴重な時間を無駄にすることなく、今後も信仰生活を続け、成長していきたいと思います。

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