その問題は彼のものか? 私のものか?

昨日書いた、嫌な気分になったことについて、神様に打ち明けました。

そのとき、最初に思い浮かんだのが「その問題はその彼のものか? それとも私のものか?」というものでした。

私に対して苛立って、第三者に対して色々と話しているのは彼であって、私ではない。私は彼に直接なにかをしたわけでもなく、単に彼が自分の思い通りにことが運べずに私のことを煙たがっているだけだ、と思うと、それは彼の問題であって、私の問題ではない、と思いました。

さらに「それは神様の御心を成すのに重要なことか? その問題を解決しなければ、神様の御心を成せないのか?」という問いが頭に浮かびました。

全く重要ではない。

彼と話し合って、お互いのわだかまりがなくなったとして、なんの意味があるのか? もし私が彼の望むとおりにやって、それで彼が満足したとして、それがなにになるのか? そのことで私が彼を見返すことができたとして、それが神様のためになるのか?

そう考えていくと、彼とのことなどちっぽけな取るに足らない物事に過ぎない、と思えるようになりました。

そして、もし、その中に解決すべき問題が生じたなら、そのときは神様がなんとかしてくださる。自分がすべきことは、彼との問題を解決することではなく、神様に意識を向けることだ。

そこまで考えると、本当に気持ちが軽くなりました。(そして胸が熱くなりました)

私は彼や会社のために生きているのではない。神様の御心を成すために生きているのだ、と思うことで、そうした自身に降りかかる嫌なできごとがすべてクダラナイちっぽけなものに感じるようになったのです。

そして、このことで、私の捨てるべきものがひとつ明確になりました。それは、人によく思われたい、すごいと思われたい、という自尊心です。

今まで自分が、これほどまでに人の評価を気にしているとは思っていませんでした。そして見下され、プライドを傷つけられたと思って激昂してしまう、というのも自身の気付いていなかった一面でした。

それを気づくことが出来たのは、ある意味サタンのおかげかも?

人からの評価など気にしたところで、その基準が各自バラバラなのだから、それに合わせようとしたら切りがない。それよりも明確な評価の基準を定めてくださっている神様に意識を向けて、どうしたら神様の心情に叶うかだけを考えていけばいい。

以前の御言葉から、そのようなことは分かったつもりでいたのですが、悟れていなかったのだと思います。
そして、実際に経験したからこそ、悟ることが出来ました。

今後は人からの評価ではなく、神様からの評価を得るために、自身のちっぽけなプライドを捨てられるよう悔い改め、四本の柱をしっかりとたてていきたいと思います。

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