隣町にクルマで行きました。
普段あまり使わない道を通ったのですが、数年前にその道を通った時、その歩道を歩いていた知人を見かけたことを思い出しました。
片側一車線の狭い道路で、私はちょうど渋滞に巻き込まれていたので声をかけようと思ったのですが、その時、その知人はこの世の終わりのような絶望的な表情を浮かべ、下を向いてトボトボと歩いていたため、声をかけませんでした。
その知人は俗に言う「士業」を生業としている人で、私は仕事をお願いしたことがありませんが、仕事に対する周りの評判はよく、おしゃれで社交的でユーモアのセンスもあり、常ににこやかで明るくて、非の打ち所がないような方です。
そんな彼が暗い顔をして歩いていたので、もしかしたら人違いではないか、と思ったのです。
後日、お会いしたときに「先日、○○の辺りを歩いていませんでしたか?」と聞いてみると「いました、なんで知ってるんですか?」と聞いてきたので、クルマの中から見かけたことを伝え「今にも死にそうな表情を浮かべて歩いていたので、声をかけられませんでした」と話すと「いろいろあるんですよ」と、その時は笑いながら答えてきました。
その時は「誰でもそんなときはあるか」くらいに思っていたのですが、今回その道を通ってそのことを思い出したときには、同時に、ラプトさんが幾度となく御言葉でおっしゃっている「誰もが不安や悩みを抱えているけれど、表に出していないだけだ」ということを思い出しました。
一見、富、地位、名声、何もかもを持っていて、悩みなどなく、幸せそうに日々を過ごしている人でも、悩みはある。
富があるから、地位があるから、名声があるから幸せ、などというのは決めつけで、実際にはそれらを得ていても辛かったり虚しさを覚えたりしている。ただ、それを人に悟られてしまったら惨めな気持ちになってしまうから、虚勢を張って、幸せを繕っている。
しかし、人に見せていない部分で悩み苦しんでいる。何よりその人の霊が苦しんでいる。
信仰生活以前は、自分が持っていない富や地位、名声などが羨ましく思え、それらを持てるようになれば、今よりもっと幸せになれるだろう、と信じていました。
持っていないから、分からないだけだと。
しかし、それは他人から「羨ましい」と思われるだけのもので、それによって多少の快感は得られるかもしれないけれど、心の底から幸せだと思えるようにはなれないのだと、ラプトブログの有料記事にある御言葉を読み、聞き従うようになってから理解できました。
そして今回、その知人の出来事を思い出したことで、いわゆる富や地位、名誉を持っている人は悩みがなくて幸せだ、と無意識のうちに決めつけてしまっていたな、と気づきました。表面だけを見て「この人は大丈夫だろう」などと思ってしまっていたのです。
しかし、そのような人たちも同じように悩み苦しんでいるのだから、救っていかなければならない。
ただ、明らかに思い悩んでいると分かる人に手を差し伸べて救ってあげるのも難しいのに、ましてや悩みや苦しみを隠して他人に弱みを見せず、虚勢を張って生きている人を救うとなると、相当難しいのだろうな、と思うと、もっともっと自分自身が成長しなければならないな、という思いに至ります。
この世で「成功者」と呼ばれるような富や名誉がある人にも話を聞いてもらえて、最終的には伝道出来るような存在にならなければ、と。
そのためには、これまで努力してきて今の地位を得た人以上に努力し、更に神様の力も借りて、どんな人にも一目置かれるような存在にならなければならない。
そうでなければ「お前になにが分かる」と内心鼻で笑われてしまい、伝道どころか、話さえも聞いてもらえないでしょう。
まだまだ、怠惰な気持ちになったり、祈りに集中出来なかったり、四本の柱をたてるのが二の次になってしまったり、ということが多々あります。
それらの悪い習慣を自身から取り除いて悔い改め、常に神様に意識を向け、成長出来るよう祈り求め、神様に喜ばれるような働きが常に出来るようになりたいです。