雑念

これもサタンからの攻撃なのでしょうか?

ここ最近、明け方の祈りの時間に雑念が入り込んでくることが多くなったような気がします。
神様に意識を向けているはずなのに、気がつくと仕事に関することを考えていたり、日常の生活のことを考えていたり。それらは別に重要なことでもなんでもなく、単に「○○しなければなぁ」とか「あんなことがあったなぁ」などといった、取るに足らない物事で、貴重な明け方の祈りの時間に考えるようなことではないのですが、いつの間にかスッと頭の中に入り込んできている。

数日前の山での祈りではそれが顕著で、それもあって歩き祈りに切り替えなければ、という思いに至った、というのもあります。

私の場合、山ではひとつのことを集中してお祈りできる反面、一度何かに気を取られてしまうと、なかなかもとに戻すことができない。その点歩き祈りだと、常にまわりの景色が変わっていくというのもあるのでしょうか、様々なことを祈り、考え、いろいろな構想を得られるから、というのもあるからかもしれませんが、すぐに切り替えて神様に意識を向けることができる。昨日今日と歩き祈りに戻って、それを感じました。

最近はよく自身の祈り方について考えています。

以前はあまりこういったことをしていませんでした。深く祈れたら良かった、深く祈れなかったら残念、といった感じで、明け方の祈りを軽く考えていたのだと思います。行きあたりばったりの考えで、深く祈れずに寝てしまったら、そのときは悔い改めればいい、くらいの認識でした。しかし、実際には「悔い」はしたものの「改め」はしていなかった。なぜそうなったのかをじっくりと考えず、自身の問題と向き合っていなかったので、理由を突き止めることが出来ず、改められなかったのです。

最近になって、自身の祈りに対する姿勢をじっくりと考えるようになり、自分がどのような性格で、どのようなときに深く祈れ、どのようなときに深く祈れなくなるのかが、ようやく分かってきたような気がします。

これだけ長く信仰生活を送ってきて今更か、といった思いですが、それでもずっと気付かずにいるよりは良かった、と思います。

まだまだ悔い改めるべきことは多いですが、より深い信仰生活を送るためにも、今後も明け方の祈りの時間を充実させていけるよう、自身の祈りの姿勢に対して真剣に向き合っていきたいと思います。

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