昨日の御言葉で男性の欠点についての御言葉が宣布されました。
傲慢になり、理屈をこねくりまわして分かったふりをする。
まさに私のことだ、と胸に突き刺さるような思いで聴いていました。
御言葉で宣布されたことは出来る限り従っている、つもりでした。明け方の祈りも歩き祈りに変えてからしっかり祈れている、つもりでした。聖書も毎日読んでいる、つもりでした。
しかし、考えてみると「やればいい」「言われたからやる」という考えがどこかにあったのだと思います。
そこには「神様のためにどうしてもやりたい」「人々を救うために祈りたい」「神様の考えが本当に分かるようになるために聖書を読みたい」という気持ちがかけていました。そこには愛が無かった。
なんとなく義務的にやっていれば大丈夫、という考えが混じってたのだと思います。
私は聖書を理解すらしていなかったので、理解するのに必死でした。しかし頭で理解しただけではダメで、そこから神様の愛を感じるようにならなければならなかった。そしてその愛を返したいという熱い思いで信仰生活をしてなければならなかった。
それなのに、聖書はとりあえず一時間読んで、やった気になっていました。明け方の祈りも起きて外に出て祈っていれば、それだけで満足していました。
それらのことを考え「悔い改めなければ」と思っていると、今度は「自分は本当にダメだ」「こんなダメな自分が信仰生活を続けていけるとは思えない」という、以前御言葉で宣布された特に女性が陥りやすい罪に、針が振れてしまいました。
罪から罪へ
一方のサタンが別のサタンに私を「ほぃ」っと投げ渡したような感じでした。ひとつ悔い改めたと思ったら次の罪に移動するだけ。簡単にサタンと波長が合ってしまうため、そこからなかなか抜け出せない。
しかし、そこで諦めてしまっては終わりだと踏みとどまり、なんとかサタンに打ち勝とうという気になれました。そして自分の力で、自分の考えで打ち勝とうとするのではなく、神様にすがりついて、助けを求めていかなければと思いました。
(今、これを書いた瞬間に、涙が溢れだしてきました。神様に感謝します)
一度にすべてをごっそり変えることは出来ないと思っています。これまで重ねてきた罪が多すぎるからです。そう簡単に変わることは出来ない。ただ、だからといって諦めてしまうのではなく、コツコツと少しずつでも日々悔い改めていけば、今よりは良くなれるはず。
そのような気持ちでこれまでの罪、そして今現在犯している罪、更にはまだ気付いていない罪を見付け出し、悔い改めていきたいと思います。
写真は数日前の夕暮れ時に撮ったものです。
それを見たときはうつくしいと思ったのですが、こうして改めて写真で見ると恐ろしい感じにも見えます。
同じ景色でも、その時どきの気分でその景色にたいする感じ方が変わるのかもしれません。