今朝の明け方の祈りの時間、いつもどおり同じルートを歩きながら祈っていたのですが、途中で急に前日の仕事中に受けたクレームのことを思い出しました。
「今は仕事のことを考える時間ではない。この雑念を取り除いて、祈りに集中しなければ」
そのような思いで、必死にそれまでの祈りに集中しようとしていたのですが、すぐにそのクレームのことに引き戻されてしまいます。
しばらくの間、その葛藤を繰り返していたのですが、どうしてもクレームのことが頭から離れない。
以前であればサタンの攻撃だと思っていたでしょうが、ハルマゲドンが終わった今、サタンの攻撃だと短絡的に考えるべきではない、もしかしたら、神様がなにかを伝えてくださろうとしているのではないか。
そう考え、そのクレームと向き合ってみることにしました。
その内容は、お客様がこちらのすべきことをしていなかった、という主張でした。
たしかに、もしその指摘された事をこちらで行っていなければ、謝罪すべきことではありましたが、明らかにこちらには落ち度がありませんでした。そこで、こちらの主張を伝えつつも、それでもなにかを勘違いしている可能性があるので「こちらも確認を怠ったのかもしれません」と相手に逃げ道を残しつつ、対応したのでした。
そこまで思い出したところで、そのお客様がなにをどう勘違いしたのか、という可能性について具体的に思い浮かびました。おそらくこれだろう、というのが分かったのです。ただ、今更、翌日になって「これを勘違いしていませんでしたか?」とわざわざ連絡してまで言うのでは、逆鱗に触れてしまうこともあり得る。逃げ道を失い、一度怒ってしまった手前、プライドも傷つき、逆ギレして、収まりかけていた問題を逆に大きくしてしまいかねない。
この問題は、内々で「おそらくこうだったね」と話をし、今後、同じようなクレームを受けたときには、どのように対応すべきかを改めて考えればいいか、という結論に至りました。
と、ここまで考えた時に、ふと「自身の信仰生活において、間違っているのに正しいと決めつけてしまっていることはないのだろうか?」という思いがよぎりました。
そのクレームをつけてきたお客様は、私達に悪意があって、弱みに付け込んで利得を得ようという感じではなく(そのような方もごくたまにいます)本当にこちらのミスだと信じて指摘してきていたように思えます。思い込みで自分が正しいと信じ、それを私達に告げたのだと。
私も同じように、自分が正しいと思い込んでいるけれど、神様から見たら間違っていることが、まだまだあるのではないか、と思いました。
聖書を読んでいると、世の中では正しい、と思われていることが、神様の基準では違い、それを指摘されている箇所が多々あります。宣布されている御言葉も同様です。
その聖句を読むまでは、その御言葉を聞くまでは、全く逆の考えを持っていた、ということも多く、その聖句を読むたびに、その御言葉を聞くたびに、自分が神様の考えからどれだけ離れていたか、を思い知らされてきました。
ですから、自分にまだそのような間違った考えを改められていないことがあってもおかしくない。
信仰生活において、至らない部分については認識していて、日々改められるよう努力しているつもりですが、正しいと信じていて、実は間違っている部分については、自身で気付くのは難しい。
それでも、もっと聖書を読み、御言葉を聞いて、自身の間違いに気付けるようになりたい。
そうやって神様の考えに近付きたい。
そう強く思うとともに、そのための祈りも必要だな、とも思いました。
より一層、深い信仰生活をおくれるよう、心がけていきたいです。