信仰心の乱高下

これまで私の信仰心は乱高下していました。

信仰を離れようと思ったことはありませんが、それでも信仰が弱いときはとことん弱く、神様には意識を向けずに自分の考えだけで行動し、聖書も読む気になれず、御言葉を聞いてもあまり頭に入らない。高慢な態度をとっていたのに悔い改めず、自身の愚かな言動に気づくと自己嫌悪に陥ったり。

振り返ってみると、そういった時というのは、大抵が明け方の祈りをきちんと守れていないときでした。途中で寝てしまったり、適当に祈って切り上げてしまったり。

しかし、最近は歩きながらの祈りを実践しているからか、そういったことがなくなり、信仰心も以前に増して強くなっています。

神様に様々なことを祈り、悔い改め、問いかけ、お願いしつつ、歩いていると、今まで全く思いつかなかったような言葉や情景が思い浮かんできます。

以前は「御言葉で言われたから」とサタン、イルミナティ、創価学会の滅びを祈っていたのですが、最近は心からサタン、イルミナティ、創価学会が滅んでほしいと思い、祈るようになっています。更に、意識的にあえて悪魔を崇拝している奴らの滅びも祈っています。同時に知らずに悪魔を崇拝してしまっている人達が、ラプトブログを知ることでそれに気付き、救われるようにも祈っています。

祈りというのは本来こうあるべきなんだな、と実感する毎日です。
本当に「今更」といった感じです。

これも、やはり何度も書いていますが、歩きながらの祈りのおかげだと思っています。

これまで、祈りが重要だと分かっていたのにも関わらず、中途半端になっていました。それが中途半端ではなくなったことで、信仰心は深まり「祈りも満足にできないダメな自分」に対して落ち込むこともなくなりました。もちろん、義の条件はまだまだ足りないという思いはありますが、少なくとも祈りを怠っている、という嫌な気持ちだけは、拭い去ることが出来ました。

そして寝る時間が遅くなったときに感じていた「今日も祈りの途中で寝てしまうかも」という不安もなくなりました。以前は、早く寝なければ祈りの最中に寝てしまう、という焦りがあり、寝床につくのが遅くなると、イライラしていました。祈りの時間のためにイライラするなど本末転倒です。

それがなくなり、その分、気持ちに余裕が出来てきました。いつ寝てもあまり祈りの時間に影響しない、と思えるのはとても大きいです。

ただ、一度も休むことなく、毎日歩いていると、流石に疲労が溜まってきます。(四十代後半なので...)
この疲労感をどうして癒やしていくか。
これも今後、神様に祈り求めていきたいと思います。

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