利己的な祈り

ここ数日間、私は自身の信仰について、利己的になっている部分があるか、もしそうなっているとしたらどのようなことか、明け方の祈りの時間に点検していました。

そこで気づいたのが、悪人の裁きを祈る時のことです。

イルミナティ、李家、群馬人脈、創価学会、影響力のある芸能人やYouTuber、そしてラプトさんに付きまとっている集団ストーカー、信仰の邪魔をする工作員などの滅びを祈っているのですが、同時に、私は個人的に自分の嫌いな人、苦手な人までもそこに含めて滅ぶように祈ってしまっていたことに気付きました。意識して強力に祈っていたわけではないのですが、悪人の滅びを祈るときに、なんとなくその人達のことまで思い浮かべてしまっていたのです。

以前、投稿したことがあるのですが、会社に苦手な社員がいます。なんとなくその彼とは反りが合わず、その彼の行動がいちいち目についてしまう。サボっているのに気付くと「バレないと思ってバカにしているのか?」と思うし、挨拶もなしに帰ってしまうと「なぜそんな態度をとるのだろう?」といちいち嫌な気持ちになっていました。そしてその事について、明け方の祈りの時間に神様に打ち明けたら「それが自分自身の信仰生活となんの関係があるのか? 神様となんの関係があるのか?」という思いが浮かびました。

結果、関係ないのだから気にしなければ良い、という結論に至り、それ以降はそれほど気にならなくなっていたのですが、最近になって、また気になるようになってしまっていました。

そして、私の自分勝手な感情から「裁かれればいいのに」などと考えてしまっていた。

裁かれるべき人と救われるべき人は神様が決めることで、私が決めることではない。
もしかしたら、彼は裁かれるべき人ではなく、救われるべき人かもしれない。それは神様にしか分からないこと。それなのに、私は勝手に自分の好き嫌いで判断して「裁いてほしい」などと考えていました。

逆のことにも気付きました。

創価学会の滅びを祈る時、いつも私の中学からの友人のことが頭に浮かびます。
その友人は創価学会員で、若い頃は選挙の度に「誰に投票するの?」と聞いてきました。当初はあまりよく意味が分かっておらず、適当に聞き流していたのですが、その後、政治に興味を持ち、創価学会と公明党の関係やその悪事を知り、その友人の意図も察したため、その質問に対して、投票する人と政党を明確にして伝え、その理由も細かく説明して「公明党には絶対に投票しない」という意志を暗に伝えていました。そして、その友人もその意図を汲み取ってくれたのか、それ以来、そのようなこともなく、創価学会のことも(少なくとも私には)話題に出してこなくなりました。

その友人とは今でもたまに連絡をとっているのですが、私がキリスト教を信じるようになったことなどを伝えたときも「自分は仏教系だから」と言ってきただけで、特に反論されることもなく、対立することもありませんでした。

ですから、創価学会の滅びを祈る時、その友人は裁きから除外されてもいいのかな? などという考えが浮かんだりしていました。

理由は自分にとっては害もなく、いい友人だから。

しかし、それは単なる私自身の考えで、創価学会の滅びを祈っている以上、当然その友人も含まれなければならない。私に害はなくても、その友人が創価学会のために使った金、寄付した金、聖教新聞を買った金などは、確実に悪に使われているのだから、やはり裁かれなければならない。

以前、そのような御言葉が宣布された時、その事に気付き、悔い改めたつもりだったのですが、いつの間にか忘れて、それ以前の考えに戻ってしまっていた。

祈りに私的感情が入り込んでいました。神様と心情をあわせなければならないというのに、私の勝手な「好き嫌い」の感情で祈っていた。
そのことに気付き、悔い改めました。

先日の御言葉で祈るべきことを明確に教えてくださってから、枝葉のように生えていたこまごました祈りをバッサリと切り捨てたため、それまで一貫性がなくバラついていた祈りが、太い一本の柱のようにグラつかず、集中して祈れるようになってきたように思います。

しかし、まだまだ雑念が入り込んできたり、倦怠感、眠気が襲ってくることがあります。

ということは、まだ気付いていないズレがそうさせている可能性がある。今後も引き続き、細かいことまで点検して、信仰がズレないようにしていきたいと思います。

また立って祈るとき、だれかに対して、何か恨み事があるならば、ゆるしてやりなさい。そうすれば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるしてくださるであろう。

マルコによる福音書 11:25

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