私はこれまで多くの人と知り合ってきました。
そんな中で、自然と身についたのは、相手がどんな人か察して、それに応じて話をすすめる、ということ。
以前から、友人、知人と話をする時は陰謀論を話すことが多かったのですが、誰もが陰謀論の話を聞きたいわけではなく、陰謀論を毛嫌いする人もいれば、全く興味がない人もいる。それ以外の共通の友人の話をしたい人もいれば、過去の話をしたがる人もいる。
そうしたことを見分けて話題を変え、その場を楽しく、雰囲気を壊さないよう場の空気を読みつつ、そのときを有意義に過ごそうと試みてきました。
しかし、ここ最近「伝道」を意識して知人と話をするようになってからは、それまでの自分の相手に対する考えが間違っていたのではないか、と思うようになってきました。
この人には伝道出来るかも? 出来ないにしても、多少の話は聞いてもらえるかも? せめてコロナワクチンの接種だけでも止められるかも? と思っていても、それらが全く出来なかったり、逆に思いもよらない人が私の話に耳を傾けてくれたり、伝えたいことが伝わったり。
そのことについて考えていると「その人の霊が御言葉を欲しているか否かが重要なのかもしれない」と思うようになりました。
私はどうしても外見や地位、言動で人を判断しがちで、これまで、その人の霊のことまで考えたことはありませんでした。
御言葉で自身の霊の存在について学び、これまでの罪によって傷ついた自身の霊魂を癒そうと必死に悔い改めてきたのにも関わらず、相手の霊については無頓着だったのです。
霊的に鈍感だから、相手の霊については分からない、ということはあるにしても、だからといって意識しないのでは、存在そのものを無視することになる。
たとえ目に見えなくても霊も存在はしている、と知ったのだから、それありきで相手を見定めて話をしていかなければならない。
自分とどれだけ親しい関係にあるか、など問題ではないし、地位や名誉も関係ない。私自身の相手に対する偏見を一切拭い去って、霊に集中すべきだ、と思いました。
「実際に霊が見えれば、もっと伝道されたいと願っている人を見付けられるのにな」とも思いましたが、今のところはその能力がないのだから、ないなりにやっていかなければならない、と考え直し、そのためにも、自分の考えで勝手に伝道出来そうな人、出来なそうな人を判断してはいけない、という結論に至りました。
そして、その判断は会話をしていく上で見極めなければならないな、と思うと、もっと会話が上手にならなければ、という思いにかられました。
そういえば、先日、友人に伝道を試みて霊の話をした時、隣にいたその彼の奥さんが「わかる!」と理解を示してくれました。彼女は「すごくいい人だし、接し方も全く問題ないのに、なぜか嫌な感じの人っていて、その人といると本当に嫌な気分になる」といったことを話してくれました。「だからその霊の話はそのとおりだと思う」と。おそらく彼女は霊的に敏感なのだと思います。
自分の意思とは関係ないところで霊の話が通じた、という経験でした。
このような事も起こりうるので、今後、人と接するときには、単に「その場が楽しければいい」というこれまでの考えではなく、その人の霊はも意識しつつ「どうしたらその人を伝道出来るか」を考えながら、話をしていきたいと思います。
そうやって霊的に敏感な人、霊的に素晴らしい人を見つけ出し、伝道していきたい。肉の罪に苦しんで、助けて欲しいと霊が悲鳴をあげている人もたくさんいるはず。そうした人たちを救うことが出来れば、ラプトブログに導いて、御言葉に導くことができれば、と思っています。