結婚指輪を失くしました。
仕事中に気付いたのですが、いつの間にか指になく、いつ失くしたのかは分かりませんでした。ただ、その日は朝からほとんど同じ場所で仕事をしていたし、よく考えると、一時間ほど前に指輪に何か引っかかったような違和感があったのを思い出したので、床に落ちているだろうと思い、周辺を探しました。しかし、いくら探しても見つかりません。それでも朝はしていた覚えがあったので、会社のどこかにあるだろう、と思っていました。
しばらくすると昼休みになったので、その間に神様に祈ろうと決め「指輪を見つけてください」と休み時間の間、祈り求めました。
しかし、午後、再び仕事の合間に探してみたのですが、どこか奥に入り込んでしまったのか、結局、見つかりませんでした。
私は落胆して家に帰り、妻にそのことを告げました。
妻は「指輪って引っかかっただけでそんなに簡単に抜けるかな?」と言っていましたが、私は仕事中での引っかかったような違和感が忘れられず、会社で失くしたと思い込んでいました。
普段は帰宅したら着替え、その後リビングで夕食をとります。ただ、その日は食事前に皆で子供部屋に行きました。というのも、義母がその翌日から数日間、我が家に泊まることになっていたからです。義母には子供部屋を使ってもらう予定だったので、片づけをしたか確かめるためでした。
そして散らかったままの子供部屋を見て子供たちに指摘し、彼らが片づけるのを見ていたのですが、妻が何気に椅子に座った時に何かを踏み、それを手に取ってみたら、それが指輪でした。
指輪を渡され、指にはめてみると、間違いなく私の指輪。
記憶を手繰り寄せていくと、その日の明け方の祈りの時間に、そこで祈っていたことを思い出しました。
私はその日の気分によって、祈りの場所を決めています。歩き祈りが多いのですが、車で山沿いに行ったり、家でも深く祈れそうな時は、そのまま家で祈ったりしています。
その日は確かに子供部屋で祈っていました。ただ、指輪を外したのはまったく覚えていなかったので、無意識の内に指輪を外したのでしょう。
まさか、そんな所にあるとは思いも寄らず、本当に驚きました。
それにしても、この件に関しては不思議なことばかりでした。
これまで指輪を外したことなどほとんどなく、あったとしても一瞬外してすぐにつける程度で、ずっと外したままでいたことなど今までに一度もありません。ですから、指輪をはめていなければ違和感があったはず。それなのに指輪を外したことも、その後、していなかったことにも全く気付いていませんでした。更に、指輪をしていなかったのにも関わらず、なぜか指輪が引っかかったという違和感を覚えていて、その時に落としたと勘違いし、探したのは仕事をしていた社内のみでした。家に帰っても、まさか家にあるとは思ってないので、全く探そうという気にはなっておらず、ただ、普段は滅多にそのタイミングでは行かない子供部屋に皆で行き、その場所で見つかった、という、自身でも首を傾げるようなことばかりだったのです。
そこで、何だったんだろうな? と振り返って考えを巡らせてみると、自身の信仰生活において、ふたつのことに気付きました。
ひとつは、自身の考えや記憶がどれほどいい加減で、思い込みによってどれだけ間違った行いをしていたか、ということです。
今回、指輪が引っかかった、という勘違いから、その時に落としたと思っていたのですが、それ以外にも、朝は絶対に指輪をしていた、と思い込んでいました。
同様に、信仰生活において、勝手に思い込んだり、勘違いしていることはないか? と思ったのです。
こんなちょっとした事でもこれだけの勘違いがあるのだから、ましてや長い信仰生活の中であれば、気付いていない勘違いが必ずあるはず。
そのように考え、今一度それらに気付けるよう祈り求め、悔い改めなければ、と思いました。
そしてもう一つは、昼休み「指輪を見つけてください」と祈ったときのことです。
私は切実な思いで、必死になって祈りました。そして絶対に見つかると信じて祈りました。
普段の祈りも同じように出来ているか?
そのような自身に対する疑問が湧き上がってきました。
神様は切実な思いで人々を救おうとされている。自分が人々の救いのために祈っている時はどうだろうか? 形式的になっていたのではないだろうか? 心の底から必死になって祈っているのだろうか?
今回の一連の出来事は、もしかしたらこれらを気付かせるために、起こしてくださったのかもしれない、と気付いたのでした。
今年に入ってから、このように、身に降りかかった出来事によって、その後に悟ることが多くなったように感じています。それらが起こっている最中はとても辛くて大変なのですが、結果的にいつもすぐに問題は解決し、そのことから、信仰生活において、いつの間にか生じていたズレや、思い違い、勘違い、間違いなどの修正ができているように思うのです。
そのようにして、正しく成長するよう導いてくださっているのかもしれない。
まだまだ間違った考えや思い込み、ズレた行動が多々あると思いますが、それらすべてに気づけるよう祈り求め、悔い改めて、正しい信仰生活を送れるようにしていきたいです。