少し前、私は友人に、自身の個性才能を使って、伝道できないか試みました。
その友人は、以前から私の話(特に陰謀論)に興味を持ってくれて、信仰についても話せる数少ない友人の一人です。私は事あるごとにその友人を訪ね、陰謀論を話し、それらはラプトブログ、そしてラプト理論プラスαのサイトから得た情報だと伝えてきました。そして、神様の存在にも触れ、どうにか有料記事までたどり着いて御言葉に出会い、神様を信じて信仰を持つようにならないか、と願っていました。しかし「神様はいるのだろう」というところまでは行っても、そこから先が難しい。だから、もしかしたら私が信仰生活をしながらやっている事を見せれば、一歩先へと踏み出してくれるのではないか、と思ったのです。
結果は「すごいね」「才能あるね」と言ってくれたものの、それ以上ではありませんでした。私としては「これは神様から構想を得たからこそ出来たもの」という話につなげたかったのですが、そこまで話せず、ただ私が「すごい」と言われるだけの結果となってしまいました。
私自身、反省すべきことがあります。友人から「すごい」と言われたとき、神様の御力で成し得たことにも関わらず、自分がすごいと言われたことでいい気になってしまい、昂ぶってしまいました。
それについては、すぐに悔い改めました。もしラプトブログに出会えていなかったら、そして御言葉にしたがって信仰生活をしていなかったら、到底成し得られなかったことだからです。
それにしても、今回の経験で「個性才能を使って伝道する」というのは本当に難しいことなのだ、自分で考えているよりもずっとずっと大変なことなのだ、と痛感しました。
更に、ここ数日の御言葉で個性才能について伝えられ、昨日の御言葉でも伝えられたことで、天の文化芸術の次元に達しなければ、自身の個性才能で人々を救うことなど出来ない、と改めて自身に言い聞かせました。
RAPT朝の祈り会
2023年2月7日(火)
今この世にある文化・芸術は、人間やサタンの知能で作られたものだから全て俗的だ。私達擬人は、霊的な知能を高めて、それら全てを超えた天の文化・芸術を成さなければならない。そのように生きてこそ、私たちは自分の全人生を神に捧げたと言えるのだ。
友人から「すごい」と言われる程度のレベルでは、大した御働きは出来ない。そもそも、その友人も単に自分が身近な友人だから「すごい」と言っただけで、本当にすごいと思っているのかも微妙なのに、それだけで昂ぶってしまうようでは、到底、自身の才能を天の文化芸術のレベルまで押し上げるのは不可能だと思いました。
全くの他人、しかも御言葉どころか神様さえも知らず、信じていない人たちに伝道するためには、もっともっと努力して技術を高め、同時に霊的にも成長して、より高い次元の霊感、構想を得られるようにならなければ。
幸いにして、私は「これが自分にとっての個性才能かな」というものが早い段階で見つかり、それをずっと続けてきているのですが、それをやっている時が楽しくて、充実感を得られ、もっとやりたい、もっといいものを生み出したい、と思いながら、神様に祈り求めつつ、努力しています。
以前は「努力」に対して、大変、辛い、苦しい、というイメージがありました。むしろ努力するなんてダサい、とさえ思っていた時期があります。いかに楽をして生きていくか、いかに簡単にお金を手に入れるか、そういったことばかりを考え、それこそがスマートな生き方だと信じていたのです。そして「大金を得て、のんびり過ごせればいいなぁ」などと考え、明確な目標も無いまま、ただ日々をグダグダ過ごしていました。
しかし今は全く違います。明確な目標があり、その目標に向かって努力し、自分を高められることに対する喜びがあります。
これらはすべてラプトブログの有料記事に記されている御言葉にて学べました。もし御言葉に出会えていなかったら、たとえ今努力していることをやろうと思い立ったとしても、楽しいとは思えず、逆に苦痛に感じていたかもしれません。そしてやることに意味を見いだせず、結局中途半端で終わっていたことでしょう。
自分の霊肉を高める喜びを知り、日々楽しみながら努力できるというのは、本当に幸せだと思います。このような日々を送れるようになれたのは、神様、そして神様に出会わせてくださり、神様の御言葉をずっと絶えず伝えてくださっているラプトさんのおかげです。心から感謝しています。
今後も昂ぶることなく、熱い信仰生活を送りながら、素晴らしい日々を送りつつ、自分を高めていき、いずれは自身の身につけた個性才能でたくさんの人を救える働きができるようになりたいです。
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