酒をやめてほしい

土日祝の明け方の祈りの時間に歩いていると、何人かの帰宅途中と思われる歩く人とすれ違います。

真夜中に、スマホを見たり、電話で話したりしながら、ふらふらとゆっくり歩みを進めていく様を見ると、飲んできて酔っ払っているのだな、というのがわかります。

私の住む地域は緊急事態宣言もなく、飲食店に対しては比較的ユルい感じなので、週末になれば飲みに出ている人もまぁまぁいるようで、仕事帰りに繁華街を通ると、コロナ以前ほどではないにしろ、一定の賑わいを取り戻しているように見えます。

私も信仰生活を始める前は、彼らと同じように夜飲み歩き、明け方にふらふらと酔っ払いながら帰路についていたことが幾度となくありました。

特に独身の頃は、そのような日々が日常でした。

あの時なにを思っていたか。

酒の席での余韻を楽しむことよりも、宴のあとの虚しさや寂しさを感じつつ、早く家のベッドで横になりたい、寝たいと願いながら、真っ直ぐに歩けず時よりよろけてしまう自分を失笑し、急にこみ上げてくる吐き気と戦いながら足を進めていました。

翌朝になって、どうやって帰宅したか覚えていないことも多々あり、それでもしっかりと帰ってこれて偉いじゃん、などと感心しつつも二日酔いの頭痛や吐き気、気だるさにうんざりしていました。

元々それほどアルコールが好きではなかったし、酒が強いわけでもなかったのに、寂しさを紛らわすため、嫌なことを忘れるため、そして酔っ払って頭が麻痺し、思考が衰えた状態になっている状態が楽しいと思い込んでいたため、そのようなことを続けていました。

信仰生活を始めたと同時に酒を止めたのですが、今となっては、なぜそのようなことをしていたのか、理解に苦しみます。

ただ、その時はそれが楽しいと思っていた、というか、それ以外に人生の楽しみを見いだせなかったと言ってもいいかもしれません。友人知人と酒を飲んで酔っ払って楽しい時間を過ごすことが、単調な日々を彩る唯一の方法だったのです。

しかし、信仰生活を始め、生きていく上での真の喜びを知ってからは、酒を飲んで酔っ払い、脳を麻痺させて楽しむことがどれだけ無意味かと思うようになりました。
無意味どころか害であり、酒が人を不幸にすることはあっても幸せにすることはあり得ない。

そもそも気持ち悪くなって吐き気をもよおすものを体内に入れてはいけない、という単純なことさえも、以前はよく分かっていませんでした。酒を飲めば体を壊す。当然のことです。そして体を壊すとなにをしても辛く、幸せを感じることが難しくなる。

他にも弊害はたくさんあります。酒が残っていれば運転が出来ませんし、飲んだ翌日が休みだったとしても、二日酔いで何もする気がわかず、ただグダグダゴロゴロしながら、ぼんやりとテレビを観て過ごし「今日は何もしなかった」という罪悪感と共に、あっという間に一日が終わってしまう。

「酒だけはやめられない」「酒をやめたら何を楽しみにしていいのか分からない」という友人がいます。「酒を飲まないと眠れない」という友人もいます。

信仰の喜びを知れば、酒の酔いなどどうでもよいと思えるのに、というか、信仰の喜びを得るためには、酒の酔いが邪魔になって、酒が飲みたいとは全く思わなくなるのですが、なかなかそれを伝えることが出来ません。そのようなことを話しても「酒を止めるのは無理」と頑なで、伝わらないのです。

私の友人のほとんどが酒を飲むので、いくら伝道しようと御言葉を伝えたり不思議なしるしを証したりしても、どうしてもそこでつまずいてしまう。

今後はそのような酒飲みの人達にどのように話せば伝道出来るか、も祈り求めて知恵をもらいたい、と思います。

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