美容院に髪を切りに行きました。
私はいつも同じ美容院に行って、同じ人に切ってもらっているのですが、髪を切ってもらっている間は世間話をしています。
話し好きの人なので、こちらもつられて、いろいろな話をします。
あまり深い話はしませんが、ここ数年は、一般的なニュースに対して、ラプト理論をもとにした情報を伝えるようにはしています。
ただ美容師さんという職業柄なのか、あまり偏った考えを持つべきではないと考えているようで、常に「そういう意見もあるね」といった反応で、私の話が真の意味で伝わっている、という手応えはありません。
それでも諦めずに、彼にその手の話をするのは、多くの人と接して話をする人が、少しでも真実を知り、それを「こんなことを話していた人がいたよ」と言って他のお客さんと共有することで、多少なりとも情報拡散につながるのではないか、と思っているからです。
今回もコロナの話から、コロナワクチンの話になりました。
その美容師さんにコロナワクチンを打つか聞いてみたところ「打つ」とのこと。
ワクチンの危険性についてはあまり深く考えていないようで、主な理由はお客さんに打ったか聞かれた時に「打った」ということで安心感を与えるからで、ワクチンを打っている人が増えている中、逆に打っていないと嫌がる人もいるのではないか、ということでした。
確固とした自身の意見を持っていて、人の意見に流されたくない、という意思が会話の節々で見え隠れする方なので、考えを変えるのは難しいかな? と思いつつも、やはり危険性については伝えておかなければ。
そう思った私は「私は絶対に打ちません」と宣言して、その理由となる危険性について説明しました。
先日、こちらの投稿で書いたのですが、私は話を「軽く」してしまいがちだと気付いたので、出来る限り慎重に言葉を選んで伝えるようにしました。
同じ話し方でも人によって全く受け方が違うので、常に誰にでも同じように話すのではなく、その人に合った話をしなければならない、と思ったのです。
着地点をどこにするかも考えました。
単にワクチン接種は危険だと言っても、じゃ、なぜそんな危険なものを国民に打たせているの? という話になります。そこで悪魔崇拝者たちの人口削減計画まで話すと、そこまで信じられない人にとってみたら「ハイ、陰謀論!」と胡散臭い話にされかねない。そうなってしまったら、ワクチンの危険性までもが胡散臭くなってしまう。
これまでの付き合いで、美容師の彼は今見えている現実を信じていて、あまり深いところまでは興味がないと思っていたので、彼に対しては、ワクチンで金儲けをしたい奴らがいる、という話に持っていきました。
昔から行っている美容院なので、あまりグイグイと私の意見を通して、気まずい雰囲気になってしまい、今後、行けなくなっちゃうのは嫌だな、と思いつつも、多少かどが立っても出来る限りのことはしないと、伝えるべきことが伝えられない、そして、救うことが出来ない、という思いで伝えました。
真実を知っているのに、神様が真実を教えてくださっているのに、それを単なる私自身の「心地いいかどうか」という感情だけで伝えない、というのは良くないな、と思ったのです。
今回の美容師さんは、どこまで私の話を信じてくれたか分かりません。
なんだかんだで、やっぱり打つのではないか、とも思います。
それでも次回行った時に「打つのを止めたよ」と言ってくれればな、と期待もしています。
伝えることの難しさを感じつつも、上手に伝えていけば、救える人もいるかもしれない。この人に伝えるのは無理だ、と私自身の勝手な判断で決めつけず、試みることも重要だな、と思いました。
そして、人々に正確に伝えるべきことを伝えるためにも、もっと話のスキルを身につけ、同時に相手になにを話せば真実に近づけさせられるか、どのように話せば拒否されずに聞く耳を持ってもらえるか、を会話の中で見つけ出せるようになりたいと思います。
これまで身につけていた自分に都合のいい話の進め方ではなく、救うための話の進め方を。
そのためにももっと神様に祈り求め、聖書や御言葉を学ばなければならない。
やるべきことはたくさんあるな、ぼーっとしていられないな、と肝に銘じて、今後も信仰の日々を過ごしていきたいと思います。