昨日(2/15)の御言葉を受けて、明け方の祈りの時間に、自分がどのようなことを捨てられていないのか、逆にどのようなことを捨てることができたのか、神様に聞いてみました。
すると自身の「アート」に対する考え方について思い浮かびました。
私はアート作品を観るのが好きで、以前、独身の頃はたまに一人でフラッと美術館に行って、絵画鑑賞をしたり、好きなアーティストの生涯を描いた本を読んだり、映画を観たりしていました。
結婚してからも妻と一緒に美術館には行っていたのですが、子供が生まれてからは、一緒にゆっくり鑑賞するのは難しいという理由から、また、信仰を始めてからは、何でもいいからとにかく観たい、という感覚がなくなって、本当に観たいものだけを観たい、と思うようになったことから、美術館に行く機会が極端に減りました。
それでも良いアートに触れたい、という思いは持ち続けています。
そのような事を思い返しているうちに、以前好きだったアーティストが思い浮かびました。
「バスキア」です。
アンディ・ウォーホルが好きだったことからバスキアを知ったのですが、当時は何がいいのかさっぱり分からなかったのにも関わらず、世間的に評価が高く、彼の絵画は高額で取引されているし、「バスキアが好き」と言えばカッコイイかな? などという考えから、自分はバスキアが好きになっていました。更に彼の生涯を描いた映画を観たために思い入れもできてしまい、若くして死んだ彼の生きざまをカッコイイ、とさえ思っていました。
しかし、RAPTブログに出会い、信仰を持ってから、改めて冷静になって彼の作品を観てみると、大した技術もなく、単なる落書きにしか見えない。そしてドラッグをやった状態で、サタン的な訳の分からないものを見て、それを表現しているだけじゃないか、と思うようになり、彼への思いはすっかり冷めてしまいました。
少し前に、ZOZO前社長の前澤が高額で(調べてみたら123億円でした!)落札したことが話題になりましたが、それを見ても、あんなものにあれだけの価値があるのか? という感じでした。
そうして、自分が好きだったアーティストを振り返ってみると、俗的な評価に流されて好きになっていたことが多いな、と気付きました。同時に、自分の価値観というのがどれだけいい加減か、という思いにもなりました。
世間的に「芸術」と持て囃され、価値をつけられて、素晴らしいものだと評価されている作品の多くは、サタン的だったり、天の文化芸術とは無関係でそれとは程遠い可能性が高い。
それなのにその俗的評価を見て、もっともらしい意見に共感し「素晴らしい」と勘違いして「好きだ」と決めつけてしまっていた。
そんなことでは、神様の広めたいと思っていらっしゃる天の文化芸術には、いつになってもたどり着けない。
だからこそ、一度、すべてを捨てなければならないのだな、と思いました。
私はRAPTブログに出会い、信仰生活を始めるまで、どっぷりと俗的な世界にハマっていました。背後にサタンがいたかもしれないような人の言葉を真に受けて、その考えに共感し、自分の考えとして受け入れてしまっていたことも多々あるように思います。
そして、おそらく今もまだ、気付いていないところで、そのような考えが多く深く沁みついている。
そういったものをすべて取り除けるよう、今後もまずは気付けるよう祈り求めて、徹底的に排除できるようにしたいです。
それにしても天のアートとはどのようなものなのか、本当に気になります。
そして、それがいずれ見られるようになる、というのは本当に希望です。
今、インスタでは絵を描いてアップしてくださっている兄弟姉妹がいて、それを観るのをいつも楽しみにしています。それらを観るたびに「このアート作品の向かう先が天の文化芸術なのだな」と思うと、ワクワクした感覚が得られるからです。
天の文化芸術が、神様のアートが、兄弟姉妹によって世界中に広められる日が来ますよう、心から祈っています。
ちなみに、今回改めて少しバスキアについて調べてみたのですが、彼が死んだのは27歳。
27クラブの一員だったのですね!
27クラブと悪魔崇拝については、ラプトブログで。
そして、バスキアの作品を観ていたら、気分が悪くなってしまいました。
このような作品を買って手元においている前澤の気がしれません。
さすが、サタンを拝んでいるだけありますね。
前澤の嘘についてはRAPT理論+αで。