強い気持ち

先日、友人との会食でコロナワクチンの危険性について説明して「絶対に打たないように」と伝えました。

一人の友人は「打てたら打ちたい」と頑なでした。

そしてもう一人の友人の考えは「国民の8割が打てば、自分が打たなくても大丈夫だ」という考えらしく「それまで待つ」と言っていました。

それは「コロナありき」の考えで、コロナ自体が嘘なんだけど、と説明したのですが、それは受け入れてもらえませんでした。
ただ、コロナワクチンを打とうという気は無さそうなので、少し安心しました。

その話題の過程で「じゃ、自分の子供がコロナワクチンを打つような状況になったらどうする?」と聞かれました。
私は「絶対に打たせない」と答えたのですが、その友人は「でも、打たないから、といって、いじめられるようなことがあったらどうする? 俺はそうなりそうなら打たせるよ」と言っていました。

私も、もしラプトブログに出会っていなければ、そのような考えに至ったと思います。いくらワクチンは危険だ、という情報を得ていても、それに対する確信は持てなかったでしょうし、いじめられて心を病んでしまうくらいなら、みんなと同じように打ってしまったほうがいいのではないか、と思ったでしょう。

しかし、ラプトブログで悪魔崇拝者のことを知り、この世には本当に、全力で悪を行っている人たちがいると分かってからは、そんな「いじめ」という一時的な問題で、安易にコロナワクチンを打たせようとは思わない。そのせいで死んでしまったら、死ななくても、後遺症が出たら、と思うと、絶対に打たせたくない。

私はそのような考えを彼に伝えました。

すると「でも子供にとってみたら、いじめというのは単に『一時的問題』とは捉えられない。その時がずっと続くと思うし、それによって病んで、自殺まで考えるかもしれない」と反論されました。

私も「もし自身の息子、娘がいじめられたら」と考えたことはあります。

しかし、それも神様に祈り求めれば、必ず解決してくださる。なにより、仮にいじめられたとしても、神様に意識を向けるよう教えればいい。誰も相手にしてくれなくなっても、私や妻がその場にいなくても、神様がずっと見てくださっている。そして愛してくださって、守ってくださるのだから、心配することはない。子供達にはそう教えればいい。

そのように考えるようになってからは「子供達がいじめられたらどうしよう」という不安は全くなくなりました。

ただ、神様を信じていない友人にそこまで説明するのには無理がありました。

彼も親として彼なりに考えているのだと思いますが、やはり人間の想像には限界がある。そして限界があるからこそ不安になるのではないかと思います。

もしかしたらいじめられるかもしれない、もしかしたらコロナにかかって死んでしまうかもしれない、もしかしたらワクチンを打っていれば助かるかもしれない、ワクチンを打たなかったからといって後悔するかもしれない。

しかし、それらの不安は意図的にメディア(悪魔崇拝者・イルミナティ)によって作られたものだと理解できれば、そしてそいつらは本気で人口削減を考えているヤツラだと分かれば、ヤツラが作ったコロナワクチンを打つという選択肢は絶対にありえない。

神様を信じれば、信仰を持てば、それらの不安がなくなるのに。

私も私の友人も四十代後半。
やはり歳を取れば取るほど、考え方を他人が変えるのは難しいのだと痛感しています。

さらに言えば、昔からの友人から言われたところで「じゃ、受け入れるよ」と簡単には考えられないのでしょう。それは一種のプライドが邪魔しているのかもしれません。

「お前が変わったのだから、俺も変われ、というのはおかしい」

「お前の考えを押し付けるなよ」

そう考えてしまうのも無理はない。

そんな気持ちも分かりますが、それでも友人を助けたい、伝道したい、という気持ちは変わりません。

「いつか伝道できれば」

そう願いつつ、神様に祈り求めていきたいと思います。

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