種まき

最近、母が神様の話をしています。

「どこどこに神様がいる」「私の神様は…」といった感じで、出雲に自分の守護神がいるから、と言って出雲大社にも行っていて、八百万の神を信じているようです。

少し前は実家の墓があるお寺の人たちと京都まで旅行したり、写経したりもしていたので、仏教も信じているようですが、迷走している感じが否めません。

それまで私は母に信仰のことは話しませんでした。いくら話したところで拒絶されるのは目に見えていたからです。
しかし目に見えない「神様」を意識しているようなので、本当の神様について教えるべきかもしれない、と思い「神様を信じているなら、聖書を読んだほうがいい。聖書こそが、神様の言葉だから」と伝えました。

すると「キリスト教? ものみの塔?」という反応だったので「あれは聖書を自分たちの都合のいいように解釈して、実際の意味を捻じ曲げている」「世の中のキリスト教も同じで、正しい解釈をしていない」と伝えました。

そして「キリスト教の神様以外は悪魔崇拝だから、信じるのは止めたほうがいい」「いずれにしても、聖書を読むべきだ」と伝えました。

ただ、急にそれ以上を伝えると警戒されるおそれがあったため、しばらくは様子を見て、徐々に伝えていけたらな、と思いつつ、神様に伝道出来るようお祈りしていきたいと思っています。

少し前に、身近な人にも伝道を試みようと決めてから、様々なところに種をまいています。

ちょっとした会話の中に、意識してラプトブログの話、神様の話を取り入れるようにしているのですが、反応は様々です。

それでも何もしないより、多少変だと思われてもいい、という気持ちで話すようにしています。

そうしなければ、本当に伝えるべき人に伝わらないと思うからです。そして「本当に伝えるべき人」というのは、私には分からない。
どこに蒔いた種が芽を出すのか、どこが芽を出すのによい場所なのか、私には判断出来ないのだから、勝手に自分で選ばず、とにかく種を蒔いていこうと思ったのです。

これまで、私は相手にどう思われるかを心配しすぎていた気がします。

例えば友人一人に信仰の話をして、その友人が、私が「カルトにハマった」と思い、他の友人たちにそれを話し、その話を信じてしまったら嫌だ、といった気持ちが強くて話せずにいた、ということが多々ありました。

しかし、もしその友人がそう受け取って、他の友人たちもそれを信じてしまったのであれば、それはそれで仕方のないことなのかもしれないな、と考えるようになりました。

友人たちからどう思われるか、が問題ではなく、神様からどう思われるか、が重要なのであって、もし友人たちに変に思われて敬遠されたとしても、更に迫害されたとしても、神様にさえ喜ばれればそれでいい、と思うようになれたのです。
それは親、家族に対しても同じで、変に思われたところで、高が知れている。

なによりも神様を一番に考える。
神様のために生きる。

当初はそれがなかなか理解できず、私には無理なのではないかと思っていました。
実際、今でも完全にそれが出来ているか、と問われると自信がありません。

それでも「第一に考えるべきは友人でも家族でもなく、神様だ」と思うことで、とても気持ちが楽になりました。

以前、友達や家族が一番大事だと思っていた頃は、彼らに何かをしなければならない、という考えが強くなり、では何が出来るか、と考えると、何も出来ていないという結論に達し、そんな自分に嫌悪感を覚え、苦しくなっていました。

しかし、何かあった時に自分でなんとかしようと頑張るのではなく、神様を一番に考えて祈り求めれば、神様は必ず助けてくださる。大切な人たちに対しても、私がなにかしなくても、神様に祈り求めれば、なんとかしてくださる。

そう思うようになって、様々なことで思い悩むことがなくなったのです。

「二心をなくす」

普段の生活に溺れてしまうと、忘れがちになってしまいますが、それでも常にそう意識しようともがいています。

今後も神様のことを第一に考え、伝道にために、自分が家族・友人にどう思われるか、ではなく、自分が神様にどう思われるかを意識して、出来るだけ多くの種を蒔いていきたいと思っています。

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